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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

「GUIを生かしたアプリケーションを!」

富田倫生
2010/7/21

前回「マイクロソフトの苦闘」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

OSへの移行を阻んだ
ディスクベーシックの繁栄

 「インターフェイスマネージャのターゲットを、とりあえず日本電気のマシンに限定する」と早めに決断しえたとすれば、この基本ソフトに対する評価と発表のタイミングは異なったものとなったかもしれない。しかし、ゲイツの重心は、あくまで本命のPCにかかったままだった。松本たちがASICの開発作業を完了し、カスタムLSIの完成が近づいて量産体制が整おうとする1983(昭和58)年の2月に入っても、西の督促に対してゲイツは「待て」と繰り返すのみだった。

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 西は決断を迫られた。

 インターフェイスマネージャのプロトタイプの、許しがたいほどに緩慢で耐え難いほどに不安定な動きは、このソフトウェアが出荷にこぎ着けるまでの長い道のりと困難とを雄弁に物語っていた。

 3月に入ってASICができ上がりはじめた段階で、西はTRONを取りあえずインターフェイスマネージャ抜きで発表せざるをえないと覚悟した。

 「零戦も3回作りなおしたんや。1発目を出してから、すぐに手直ししていこう」

 西は松本にそう告げた。

 日本電気に対しては、取りあえずインターフェイスマネージャをはずす代わり、視覚的な操作環境を組み込んだアプリケーションを標準で持たせるという代案を示した★。

 ★GUIが間に合わないと通告を受けたTRONの開発チームは、ソフトウェア戦略の修整を迫られた。インターフェイスマネージャに代わるGUI的な性格をもったアプリケーションの中心として期待されたのは、マイクロソフトのマルチツールだった。マルチプランのインターフェイスをベースに、マイクロソフトは当時、英文ワープロのマルチワード、データベースのマルチファイル、グラフ作成用のマルチチャートなどの開発を進めており、これらはマルチツールと総称されていた。

 新たな方針では、TRONの発売当初はマルチツールの中から初期に出荷できるものを前面に押したて、日本語ワードプロセッサを別におぎなうとされた。本命のGUI環境に関しては、1983(昭和58)年度下期までにこれを間に合わせ、マルチツールのアプリケーションも、この時期までにそろえる目標が、新たに定められた。

 基本ソフトの側で用意することが無理だとしても、GUIを組み込んだ個別のアプリケーションを作ることなら、時間的に間に合うはずだった。

 西の指示を受けて新しいマシン用に視覚的なアプリケーションを準備する役割をになったのは、当時アスキーからアスキーマイクロソフトに出向して、MS-DOSやマルチプランの日本市場への売り込みを図っていた古川享だった。

 アスキーの副社長という顔に加え、西和彦にはマイクロソフトの新技術担当副社長というもう1つの顔があった。京都セラミツクと組んで西が進めていたハンドヘルドコンピュータとTRONの開発計画は、マイクロソフトの西の仕事だった。アスキーの現場スタッフは、日本電気版のアルトの子供に関して、まったく情報を与えられていなかった。

 アスキーのアプリケーション開発を統括する立場にもあった古川は、後藤たちのグループが西と連携して何らかのプロジェクトを進めつつあることは察知していた。だが西を含めてマイクロソフト側からの具体的な協力要請もなく、日本電気からの正式な依頼もない段階で、古川をはじめとするアスキーのスタッフは、彼らにとってもベールを被ったままのプロジェクトに働きかけることができなかった。

 当初予定していた5月発表から、TRONのスケジュールはこの段階で7月発表、8月発売とわずかに先送りされていた。このマシンに「GUIを生かしたアプリケーションを可能な限り早く用意してほしい」と日本電気から要請された時点で、古川は共感と焦りという湧き上がってくる2つの思いに引き裂かれた。

 アルトの子供というプランは、素晴らしく魅力的だった。だが発表や出荷のスケジュールを睨んだマーケティングの準備は、絶望的に遅れていた。

 スケジュールを組み立てる時間があらかた失われた段階で、古川はスタートを切らざるをえなかった。

 さらに古川の前には、スケジュールに加えてもう1つの大きな壁が待ちかまえていた。

 マルチプランのバンドルは、すぐに本決まりになった。

 マイクロソフトに移ってマルチプランを担当することになったチャールズ・シモニーは、移籍した時点ですでに固まっていたスペックを、全面的に見直すことはしなかった。ただしメニューの組み込みに関しては、パロアルト研究所の出身者らしい自らの信念を通した。シモニーはマルチプランの画面の下2行にメニューを並べ、命令を正しくタイプする代わりに次の動作をここから選ぶ道を付けて、操作を簡単なものとしようと考えた。セルと呼ばれる集計表のます目を選ぶ動作や、メニューの選択は、マウスになじむ処理だった。

 このマルチプランを日本語に対応させて載せることには問題はなかったが、ワードプロセッサに関してはあらたに候補を探さざるをえなかった。

 古川がまずあたりを付けたのは、PC-9801用に味もそっけもない「日本語ワードプロセッサ」と名付けた製品を発売し始めたばかりの管理工学研究所だった。

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