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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

竹松昇と魂の兄弟たち

富田倫生
2010/8/9

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1983(昭和58)年の9月、PC-100のプロトタイプはハッカーの1人が仲間たちの根城にできるようにと借りていた、学生にとっては少し広めのアパートに運び込まれた。

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 居合わせていたハッカーたちが飛びつくように段ボール箱からマシンを引き出すと、マウスが見つかった。少年のような華奢(きゃしゃ)な風貌に、眼鏡の奧の瞳にだけは老練な科学者のような色を浮かべたハッカーがマウスを取り上げ、「見て」と仲間たちに目配せをして微笑んだ。

 マシンをセットアップしてMS-DOSのフロッピーディスクを差し込み、電源を入れた。ディスプレイに光が入り、ドライブがガチャガチャと音を立てはじめた。

 次の瞬間、ハッカーたちは画面に魂を吸い込まれたように凍り付いた。

 マシンを立ち上げたとき、画面の左上から右に流れはじめるはずのオープニングメッセージは、左下から真上に向かって走りだしていた。

 マウスを見つけたハッカーの1人、竹松昇は、その瞬間にすべてを理解した。

 このマシンを作ったのは、彼らの魂の兄弟たちだった。

 ごく常識的に横に置いたディスプレイは、きっと縦に置いてほしかったに違いない。そうすればオープニングメッセージはちゃんと左から右へと流れる。そうだ、マウスも付いているではないか。

 兄弟たちはきっと、アルトを作りたかったのだ。

 飛びつくようにして読みはじめた資料をめくってはマシンを操作していくうちに、竹松は自分の胸が、経験したことのない熱いうずきにみたされていくのを覚えた。

 ビットマップ方式による解像度の高いディスプレイを備えたこのマシンは、電源を入れると同時にROMに収めたベーシックが起動される従来のパーソナルコンピュータとは一線を画し、はじめからマウスの機能を組み込んだMS-DOSマシンとして仕立てられていた。必要に応じてフロッピーディスクから読み込んで使うベーシックでも、マウスを使うことができた。

 アルト型の縦置きと思ったディスプレイが、横にも置けると分かったときは笑いがこみ上げてきた。あわててマシンをセットアップした竹松たちは、ディスプレイを載せるチルト台を組み付けないでいたが、この台が縦横を識別するスイッチとして利用されていた。電源が入れられると本体はディスプレイがどちら向きにセットされているかをまず識別し、画面への表示の仕方をマシン自身が切り替えるようになっていた。開発者はきっと、縦置きのアルトとしてだけではなく、横置きのスターとしてもこのマシンを使いたかったのだろう。

 キーボードを叩き、マウスを操作しながらマシンの動作を確かめていくうちに、竹松はディスプレイの奧に潜むまだ会ったこともない兄弟の魂の息吹を、頬に寄せた手のぬくもりのように、一瞬の震えも逃さず感じはじめていた。


 1961(昭和36)年、ジャストシステムが本拠を置くことになる徳島に生まれ、物心ついてからは大阪に育った竹松昇は、幼いころから形あるものを作ることに引かれて育った。

 小学校からラジオの組み立てに取り組んでいた竹松は、中高一貫の進学校、高槻中学に入ってすぐに電気物理クラブに入部した。アマチュア無線が主体の電気物理だったが、高校3年生にはデジタル回路を突っ込んで勉強している先輩がいた。コンピュータにつながる流れをクラブに残しておきたいと考えた先輩は、入部してきたばかりの中学1年の竹松に目をつけて、イロハからデジタル回路の基礎を叩き込もうと試みた。0か1かを記憶するというデジタル回路のもっとも基本的な働きが、電子的なシーソーのような構造を持ったフリップフロップと呼ばれる回路によって実現できることや、加減乗除が2進法では足し算の機能を持った加算回路だけですべて処理されていることが理解できるようになると、春に芽吹いた草花が一気に伸びはじめるようにコンピュータへの興味が膨れ上がってきた。

 中学3年生になった1976(昭和51)年ごろからは、『トランジスタ技術』をはじめとする各誌に盛んにマイクロコンピュータを使った手作りマシンの製作記事が載るようになり、この年の終わりには初めてのマイコン専門誌『I/O』が発行された。CQ出版が出していた『つくるコンピュータ』という本には、日本電気の4ビットのマイクロコンピュータ、μCOM-4を使った詳しい製作記事がじつに論理立てて書かれていた。竹松は、これなら部品代も安く抑えられると踏んで、クラブの実験予算を使って初めてのコンピュータ作りに挑んだ。

 入力はスイッチ、出力は発光ダイオードのランプだけのシステムを部品を集めて手作りする一方で、竹松はNHKの教育テレビで放送していたミニコンピュータの講座で、ベーシックやフォートランの文法を学びはじめた。

 コンピュータという同じ海に浮かぶとはいえ、右手に見える電子部品から組み上げていくハードウェアの陸と、左手に浮かび上がってきた高級言語によって記述されるソフトウェアの島は、竹松の中でしばらくは切り離された別個の存在のままだった。

 その2つが、海面下で確かに地続きとなっていることを教えてくれたのは、タイニーベーシックだった。

 竹松が高校に入ったころから、『I/O』や『ASCII』といった雑誌には、タイニーベーシックのソースコードが掲載されるようになった。CPUを直接操作できる機械語の命令をどう組み合わせて、ベーシックの命令を機械語に翻訳するプログラムが構成されているかを丹念に追っていく中で、ハードウェアとソフトウェアをつなぐ構造が見えてきた。高校2年でタイニーベーシックのインタープリターを自分なりに一から書き起こしてみて、竹松の中でコンピュータの環は完全に閉じた。

 1980(昭和55)年に受験した大阪大学基礎工学部では、当然コンピュータを専攻しようと情報学科を第1志望とした。希望した情報にけられ、第2志望の生物工学科にまわされたときは、初めての挫折らしい挫折に落ち込んだが、気を取り直してコンピュータのサークルを探すことにした。

 入試への挫折感は、入部した大阪大学コンピュータクラブで自分と同類の硬派のハッカーを発見するたびに、1枚1枚薄紙がはがれるように消えていった。

 クラブには、アップルII やPC-8001といった人気となったマシンをもっぱら使うだけの人種も多かったが、生粋のハッカーも紛れ込んでいた。竹松と前後して入部した新入生の木原範昭は、高校時代からコンピュータの回路に組んできた筋金入りだった。入試から解放され、堂々とコンピュータに没頭する権利を確保した木原は、アパートにこもってハードウェアの設計製作からOSの移植まで、何から何まで自分1人で取り組んで、CP/Mマシンを作り上げてしまった。

 同類の木原がその後CGに入れあげるのを横目に、竹松は一貫してOSや言語にこだわった。

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