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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

アラン・ケイの論文が残したもの

富田倫生
2010/8/10

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 入学直後、竹松は通い慣れた大阪の秋葉原、日本橋で、Cという聞いたことのない言語の特集を組んでいる『DDJ』(1980年5月号)を見つけ、引き込まれるように読み進んだ。

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 Cという言語が、自分の興味を持っているOSや他の言語を作るために書かれたというくだりには、特に興味を引き付けられた。ベル研究所のデニス・リッチーという研究者によって、1972年から73年にかけてUNIXを書くために開発されたCは、本来の用途に加えて、さまざまなプログラムの開発にも広く使われる可能性を持っていた。きめ細かな記述が可能なCは、異なった機種への移植が比較的簡単に行える点でも強みを発揮できるように思えた。

 大学の図書館には、Cに関する文献は1冊も入っていなかった。のちに東京大学大型計算機センターの石田晴久によって翻訳される、デニス・リッチーとブライアン・カーニハンの『プログラミング言語C』という本が存在していることを知り、日本橋を探し回った挙げ句見つけられずに、結局アメリカから取り寄せた。

 すぐに興味を失ってしまった事務処理用のコボルを唯一の例外として、基礎工学部の図書館を根城に、言語という言語に軒並みかじりついていった竹松は、翌1981(昭和56)年の春、毛色の変わった論文を雑誌のバックナンバーの中から見つけだした。

 その論文の存在は、『bit』誌に東京大学理学部情報科学科の助手だった坂村健が書いていた記事で知った。IEEE(アメリカ電気電子通信学会)の『コンピュータ』誌、1977年5月号に掲載されていた「パーソナル・ダイナミック・メディア」という論文の1ページ目には、コンピュータを前にして、パレットを左手に右手の親指を立てて構図を決める絵かきのイラストが添えられていた。

 アラン・ケイという人物によるその論文を学部の図書館の席で読みだして間もなく、竹松の胸には、南国に生まれた少年が初めて空から舞い降りてくる雪を仰いだときのような、決して忘れ去ることのできない鮮烈な情感のシャワーが降りはじめた。

 「もともとは計算の道具として作られたものながら、コンピュータは論理立ててその振る舞いを分析できるものであれば、どんなものにでも化ける力を持っている」とケイは言う。

 人間は何千年もの昔から、考えや感情を人に伝え、自分自身の記憶にとどめるために紙の上の文字や記号、壁に描いた絵、声や楽器によってつづられるメロディーを利用してきた。人の思いを伝えるメディアの世界には、やがて写真や映画、テレビといった目の前の世界を忠実に記録し、動きまで写し取ることのできる新しい技術が生まれた。だがいったん記録されたものはそれ以降は姿を変えることがなく、思いを受け取る側は、ただ受け身で表現の前に立ちつくすしかないという点では、新しいメディアも古いメディアと変わるところはなかった。

 ところが万能の物まねの力を生かしてコンピュータをメディアに化けさせれば、静かにそこにたたずんでいるだけだった表現に、命を吹き込むことができるとケイは言う。あらゆるメディアの機能を備える超メディア、打てば響く動的なメディアを、コンピュータによって作ることができるというのだ。

 渓谷の細い清流に手をひたしたような新鮮さを感じさせたのは、こうした発想だけではなかった。

 ケイのいうダイナミックなメディアの実現に向けて、パロアルト研究所の学習研究グループはコンピュータを動的な超メディアに変身させるためのソフトウェアをすでに積み上げていた。

 ビットマップ方式による高解像度の表示機能を前提として、グループはウインドウ環境を備えた言語、スモールトークを開発し、マウスを組み込み、文字や数値にとどまらず、グラフィックスや音、アニメーションなどさまざまな形式の情報を取り扱う実験を繰り返していた。

 図書館で文献をコピーし、自宅に持ち帰ってからもう1度腰を落ちつけて読みなおしてみたとき、竹松の中で新鮮な感動はある確信に変わりはじめていた。


 自分がなぜコンピュータに興味を持ち、引きずられるようにハードウェアとソフトウェアにのめり込んできたのか、竹松はこれまで考えたこともなかった。物を作ることの喜びと、精緻な論理の世界の手触りの心地よさがすべてだった。

 だがコンピュータと出合ったことには、意味があったのだ。

 〈すべてはこの論文と出合い、創造的な思考のためのダイナブックに向けて走り出すための、予行演習ではなかったのだろうか〉

 竹松はそう考えた。

 〈自分の明日を賭けて取り組むべき仕事は、ダイナブックの実現のために働くこと以外にはありえない〉

 竹松はそう確信しはじめた。

 論文のまとめにケイは、「誰もがダイナブックを持っている世界では、いったいどんなことが起こるのだろう」との問いかけを、さりげなく残していた。この問いへの答えを脳裏に描き出すとき、竹松はいつも全身を包む啓示のぬくもりに身を委ねることができた。

 ケイの論文を、感動を共有した橋本一哉と2人で訳し、クラブの会報に載せた。

 自他ともに認める硬派のハッカー仲間の橋本と、CGに入れ込んでいた木原範昭とは、アミューズメントロボットの話でも組んだ。

 ロボットの話を通じて知り合った藤井展之は自分たちの世界とは無縁の大人の国の住人だったが、彼の人間的な線の太さと行動力は魅力的だった。

 会社を起こそうという話には、なすべき仕事への第1歩になりうると考え、迷わずに乗った。CGの制作プロダクションに代わって浮上した、藤井の取ってきたグラフィックス志向のマシンにアプリケーションを書くという話は、いっそうなすべきことに近づいているように思えた。

 だが木原のアパートに届いたPC-100は、なすべきこと、そのものだった。

 ウインドウやメニューを用意する操作環境は、PC-100には用意されていなかった。それでも高解像度のディスプレイとマウスは、PC-100がアルトの子供以外の何者でもないことを雄弁に物語っていた。そのPC-100がGUIを欠いて生まれ落ちようとしていることは、このマシンにとっては不幸であるのかもしれない。

 けれどだからこそ、竹松はPC-100に向けてなすべき自分の役割を認識できた。

 アルトの肉体は、竹松の目の前に捧げ出されていた。竹松たちがソフトウェアによって命を吹き込めば、パーソナル・ダイナミック・メディアは、今、ここで産声を上げるのだ。

 グループの目指すところをハイエンドの先端的なCGの世界から、パーソナルコンピュータに切り替えるにあたっては、あらためてアラン・ケイのビジョンを見直して、誰もが使うことのできる役に立つ道具を目指すという方針を確認しあった。

 これまで木原が中心となって引っ張ってきたCGの分野には、大別して2次元と3次元という2つの技術の種があった。この種にGUIの水を注ぎ、2次元のお絵かきソフトと3次元の立体図の作成ソフトに取り組む方針を立てた。

 アルト用に開発されたスモールトークを分析しなおし、ユーザーインターフェイスの仕様を固める作業には、竹松と橋本が中心になってあたった。最初のアプリケーションとして開発を優先することにした3次元のアプリケーションの本体は、布団にくるまって部屋の隅に転がっているとき以外はPC-100にかじりついたままの木原が、MS-DOS用に提供されていたラティス社製のCで書いた。

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