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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

PC-9801とPC-100の緊張関係

富田倫生
2010/8/17

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

大内淳義
元祖パソコン部隊に終戦を命じる

 1983(昭和58)年秋、PC-100とPC-9801Fの発表から間もなく、日本電気会長 小林宏治は、会長室にて副社長の大内淳義の訪問を受けた。

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 大内の肩の線に、小林はすこしこわばったような印象を受けた。

 「半導体はパソコンから手を引かせようと思います」

 結論から切り出した大内の言葉を耳で追いながら、小林はさすがに驚きが眉根を寄せさせるのを抑えられなかった。

 情報処理事業グループと新日本電気という2つの〈新参者〉からパーソナルコンピュータへの参入の意向が示された時点で、大内にこの分野を独り占めするつもりのないことは承知していた。

 日本電気のパーソナルコンピュータは、大内の担当する電子デバイス事業グループから生まれ育った。マイクロコンピュータ販売部の渡辺和也に暴走気味の挑戦を許し、奔馬に手綱をかけながらも思い切った決断でここまで新しい事業を伸ばしてきたのは大内だった。パーソナルコンピュータは、大内の財産だった。その財産を独占する意志がないことは、情報処理に16ビットの事務用機を委ね、新日本電気に家庭用の8ビット機を譲り、半導体は両者の中間を行くという方針を大内が自ら打ち出した段階ですでに明らかだった。

 だが大内はさらに、その財産を完全に手放すのだという。

 「これ以上進んでしまってからでは調整が難しくなる。修整するなら今でしょう」

 大内は淡々とそう言った。

 「となれば、どう考えてみても半導体に手を引かせるのが最善の手としか思えない。そしてこの決断は、私から申し出る以外にないと考えたわけです」

 視線を起こして眼鏡の奧の大内の瞳をのぞき込み、いつもどおりの静かな色を確認した小林の胸に、小さな安堵の火が灯った。

 小林はそのとき、いつか大内から聞かされたサマセット・モームの言葉を思い出していた。

 海軍の初級士官時代、のちに安川電機製作所の会長を務めることになる安川敬二から手ほどきを受けて以来大内が病みつきとなったコントラクトブリッジを、モームは「人間が考え出したもっとも知的なゲーム」と称したのだという。その後もこのトランプゲームを愛し続け、国際的な称号を与えられるほどの名人となった大内は、その魅力を「推理力と記憶力、加えて相手の心理を読みとる洞察力が求められ、運の要素が小さいこと」と評していた。

 目の前で半導体のパーソナルコンピュータからの撤退を申し入れる大内の目には、コントラクトブリッジの名人の冷徹な理知の色が浮かんでいた。

 大内は情報処理のPC-9801と電子デバイスのPC-100のあいだに生じた鋭い緊張関係に、社内抗争の兆しを感じとったのだという。

 新日本電気がPC-6001でパーソナルコンピュータに乗り込んでくるにあたっては、半導体側に強い警戒感があった。当初の計画では、PC-6001にはシステム全体としての処理速度を高めるためにマイクロコンピュータを3個組み込み、PC-8001用のアプリケーションをそのまま走らせることのできるベーシックを採用することになっていた。だが、自分たちのPC-8001と100パーセントの互換性を持ったより強力でより安価なマシンという設定に、渡辺は至極当然にも強い反発を示した。激しいやり取りの末、PC-6001はマイクロコンピュータを2個組み込み、一部PC-8001との互換性を欠いた、10万円を切るマシンとしてデビューすることになった。

 電子デバイスと新日本電気のあいだで厳しいやり取りがあったことを見てきた情報処理は、PC-9801の性格付けとプロジェクトの進行状況を徹底的に伏せて走った。

 ふたを開けてみて、PC-9801がPC-8801の互換機として仕上げられたことを知った電子デバイスの受けた衝撃は、それがもっとも確実な選択肢であることを承知していただけに、なおいっそう大きかった。

 システム100の最下位機種をパーソナルコンピュータとしてデビューさせるというプランを発表の直前になって捨て、急遽突貫工事でPC-9801の開発を進めているあいだ、電子デバイスが独自の16ビット機に着手しているという情報を得た情報処理は、もう1つのマシンに先を越されることを恐れた。いち早くPC-9801を市場に送り出してからも、情報処理は斬新な設計思想を取り入れているらしいもう1つの16ビット機に、強い警戒感を抱き続けていた。

 関本と大内の判断で同時発表となったPC-100とPC-9801Fが市場に出たこの年の10月以降、両者間の緊張は頂点に達した。

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