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パソコン創世記
第2部 第6章 魂の兄弟、日電版アルト開発計画に集う
1983 PC-100の早すぎた誕生と死

PC-9801シリーズのライバルたち

富田倫生
2010/8/20

前回「浜田俊三、PC-100を前にして当惑する」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 社内の強力なライバルの命脈を静かに断ったあとも、開発と販売の戦力をPC-9801に一本化して打倒するべき敵は社外に数多く控えていた。

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 スタートのタイミングでPC-9801に先行した三菱電機のマルチ16は、浜田自身が発表の直前になって捨てたオフィスコンピュータの最下位機種としての性格を色濃く残していた。

 三菱電機は自らの手で日本語ワードプロセッサを開発したほか、自社のオフィスコンピュータで使われてきたさまざまなアプリケーションを移植して豊富なソフトウェアのリストを誇示した。サードパーティーの開発を積極的に後押しし、個人ユーザーを狙ったPC-9801に対し、オフィスコンピュータを引きずったマルチ16は、従来型の文化の枠組みの中で望みうる成長しか達成できなかった。

 PC-9801の発表の5日後、1982(昭和57)年10月18日に東芝が発表し、翌年の2月から出荷を開始したパソピア16は、MS-DOSをいち早く本線に据えて標準装備し、グラフィックスを強化した先進的なマシンに仕上がっていた。

 フロッピーディスクが常識となる時代を先取りして、640Kバイトの5インチドライブを最小構成でも1台持たせると踏ん切ったパソピア16は、MS-DOSマシンとして立ち上がり、GWベーシックもフロッピーディスクから読み込む形をとった。自分自身、PC-9801の基本路線とするべく腹をくくっていたMS-DOSを前面に押し出し、アナログRGBを採用して640×500ドットで256色中から任意の16色を表示できる強力なグラフィックス機能を備えたパソピア16に、浜田は強い警戒感を覚えた。だがパソピア16は、勢いを引き継ぐべき8ビットの遺産に乏しかった★。

 ★後にIBM PC互換のラップトップ機で躍進を遂げる東芝のパーソナルコンピュータの開発チームは、1978(昭和53)年2月にメインフレームからの撤退の発表に追い込まれた大型の部隊にルーツを持っていた。当時大型機の開発部長を務めていた溝口哲也らは、日本電気と組んで開発してきたACOSシリーズからの撤退が近づく中で、生き残りをかけて2つのプロジェクトを進めた。

 1977(昭和52)年10月から、ミニコンピュータをベースに試作機の開発に着手した日本語ワードプロセッサの専用機は、1979年2月には他社に先駆けて発売できた。さらにもう一方で彼らは、日本語ワードプロセッサと同じ時期から8ビットのパーソナルコンピュータの開発に着手していた。

 アップルII をライバルとして想定し、インテルの8085を使ってカラーに焦点を絞ったマシンはT-400と名付けられていた。1978年3月に西ドイツのエレクトロニクス関係のフェアー、ハノーバーメッセで発表されたT-400は注目を集めた。続いて7月にシカゴで開かれたコンシューマー・エレクトロニクス・ショーに展示してからは、テキサスインスツルメンツをはじめとするアメリカの各社からOEM供給の引き合いがあった。しかしOEMに関しては条件面での話し合いがつかず、日本での事業化にもトップの了承が得られないまま、東芝は日本電気のPC-8001に先駆けて本格的なパーソナルコンピュータを市場に問うチャンスを逃した。

 1980(昭和55)年10月、東芝はオフィスコンピュータの最下位機種との位置づけでBP-100と名付けたマシンを発表したが、140万円の8ビット機はパーソナルコンピュータの台頭の流れには乗れなかった。1981年10月、東芝はZ80を使ったパソピアを発表し、翌年1月から出荷を開始して遅ればせながら本格的な参入を目指した。だが三菱電機は同月から、初の16ビット機となるマルチ16の営業をスタートさせ、1982年の4月からは出荷を開始した。そして同年の10月、日本電気は互換ベーシックによって8ビットの勢いを引き継ぐPC-9801の発表を行った。パソピア16はその後のパーソナルコンピュータの進化を先取りした強力なマシンに仕上がっていたが、勢いと継ぐべき資産でPC-9801に差をつけられた。さらにアプリケーションの開発促進をめぐるさまざまな戦術の積み重ねによって、その後、日本電気にいっそう差を広げられていった。

 浜田がもっとも警戒感を募らせたのは、富士通が開発を進めているという新しい16ビット機に関する情報を入手した1984(昭和59)年の秋だった。

 従来の同社のパーソナルコンピュータと同様、半導体が本業の電子デバイス事業本部による、ベティとコードネームで呼ばれたマシンは、情報によればCP/M-86をメインのOSとし、グラフィックスを機能強化しているとのことだった。

 ベティのスペックで浜田がもっとも恐れたのは、このマシンが1Mバイトの5インチドライブの採用を予定していた点だった。

 PC-9801Fを発表し、即日販売を開始した直後の前年11月、日本電気は主に8インチをつなぎたいというユーザーを想定して、Fから5インチのドライブをはずしたEと名付けた廉価版を発表していた。

 一方、本線のFの延長線上には、この年の9月、10Mバイトのハードディスクを内蔵し、メモリを256Kバイトに増やしたF3を発表したばかりだった。

 PC-9801シリーズの5インチドライブが640Kバイトにとどまっている中で、富士通に1Mバイトで差をつけられることを恐れた浜田は、急遽府中の技術陣に大容量版のドライブの開発を求めた。与えられたきわめて短い期間では従来の640Kバイトの読み書きも可能な1Mバイトタイプは作れないと府中が首を横に振った段階で、浜田は従来との互換性は犠牲にしても1Mバイト版を間に合わせるように指示した。この年の11月、日本電気は1Mバイトのドライブを2台組み込んだM2の発表に踏み切った。ドライブの新しい容量を強調するためにこのシリーズはMと名づけられ、FM-16βとして12月に発表された強力なライバル機のイメージの希薄化に成功した。

 富士通はその後も、電子デバイスグループによるFMシリーズと、メインフレームの端末の性格を備えた大型グループによる9450シリーズとの統合に手間取った。加えてメインのOSとしてCP/M-86を選択したことは、出遅れを取り戻してPC-9801を追おうとした富士通にとって、その後大きなマイナス材料として機能した。

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