第14回 ウィンドウズ 2000の開発責任者
脇英世
2009/2/23
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ジム・オールチン(Jim Allchin)――
マイクロソフト上級副社長
米マイクロソフトの上級副社長であるジム・オールチンは、ウィンドウズ 2000の開発責任者として有名である。正式な名前をジェームズ・エドワード・オールチンといい、1952年にフロリダで生まれた。47歳という年齢は、マイクロソフトの重役としては、かなり年長の方だ。白髪で有名だが20歳代後半で完全に白髪になってしまったのだそうだ。
ジム・オールチンの父親はミシガン州からフロリダ州のケイスビルに移ってきて、農民となった。家は貧しく、部屋にはドアさえなかった。オールチン兄弟ははだしで学校に行った。学校に行く前も学校から帰ってきてからも、農作業を手伝わされた。電気や機械に興味を持っていたようだが、作るものは失敗作ばかりだったようだ。高校生のとき、給与計算会社でアルバイトをした。パンチカードを運ぶだけの仕事であった。オールチンはフロリダ大学の電気工学科に入学したが、バンドに夢中になり、どちらかといえば落ちこぼれの学生であった。
こうした経歴は、ディビッド・バンクの『ブレーキング・ウィンドウズ』で初めて明らかにされた。ジム・オールチンの過激な戦闘性を説明するルーツともなっている。名門出身の青白き秀才ではないのだ。
1973年にフロリダ大学を卒業した後は、テキサス・インスツルメンツに入社し、高水準言語で汎用OSを開発した。さらに数社を渡り歩き、実務経験を積んだ後、1980年にスタンフォード大学で修士号を、1983年にジョージア工科大学で博士号を取得した。ちなみに、博士論文の題目は「信頼性の高い非集中型システムのアーキテクチャ」であり、これはクラウズ(Clouds)と呼ばれる分散型OSのアーキテクチャを論じたものであった。
ジョージア工科大学博士課程在学中、ジム・オールチンは、米国のネットワークソフトウェアベンダであるバニヤン・システムズの社員募集に応募した。1983年にできたばかりの会社で、創立者のデイビッド・マホーニーは飛行機で飛んできてアトランタ空港でジム・オールチンを面接し、その場で採用を決めたという。ジム・オールチンは、同社の主力製品であるバインズ(VINES)というネットワークOSを開発し、またストリートトークというディレクトリシステムを開発した。36時間ぶっ続けに仕事をしてはしばらく眠り、また36時間ぶっ続けに仕事をするというスタイルだった。この仕事のスタイルはマイクロソフトに向いていた。同社には7年間勤め、マイクロソフトに入る前は、バニヤン・システムズ副社長兼CTOという肩書であった。なお、彼はミュージシャンの顔も持っていた。ブルース好きで、ビンテージギターファンあこがれの1954年製フェンダー・ストラトキャスターを所有するギターマニアでもある。
マイクロソフトは伝統的にLANを苦手としていた。1980年代後半には、ノベルのNetWareに対抗して、IBM、マイクロソフト、3Comで連合軍を結成し、LANマネージャを武器に戦いを挑んだものの、大敗した苦い経験がある。多分、このことからビル・ゲイツはネットワークに強い人材がマイクロソフトに必要だと判断したのだろう。そこで、ジム・オールチンに白羽の矢が立ったわけだが、バニヤンからの引き抜きには、ビル・ゲイツとスティーブ・バルマー、マイク・マレーの3人がかりで1年かかったという。結局、ビル・ゲイツの熱心なスカウトが実り、ジム・オールチンは1990年にマイクロソフトへ入社した。
ウィンドウズ NTの後継OSとなるカイロの開発が、ジム・オールチンの担当であった。1998年8月の講演では、次のように告白している。
「8年前にマイクロソフトに来て以来、NTが私の生活の核心でした」
1993年秋、マイクロソフトの首脳部は1994年前半にシカゴやカイロをリリースすると発表した。そのとき、カイロという開発コード名が公的に明らかになった。カイロはオブジェクト指向のOSといわれていたが、詳しい説明はなかった。わずかに残っているのは、1993年11月、ビル・ゲイツが『インフォワールド』誌に語った記事である。
「カイロの統一されたストレージと、自動検索、ディレクトリ構造によって、ファイルの内容で照会を行うことが可能となるでしょう。ある言葉を含んでいるファイルをシステムに検索するよう、要求することができます」
いまいち、よく分からない説明である。ともあれ、そういうものの開発をジム・オールチンは引き受けたのである。
マイクロソフトは初めから、ウィンドウズ NTやカイロにすべてを賭けるつもりはなく、2本立て戦略をとった。ジム・オールチンはビジネス・システム事業部を統括し、カイロを開発した。一方、ブラッド・シルバーバーグはパーソナル・システム事業部を統括し、ウィンドウズ 3.1、ウィンドウズ 95を開発した。
ジム・オールチンの不満は、優秀な開発者はすべてシルバーバーグの方に取られていることであった。さらにウィンドウズのシェルの開発はシルバーバーグの部隊が行っており、オールチンの部隊は、振り回される一方であった。
オールチンの部隊はいわゆるアーキテクトの集まりで、アカデミックでハイブローな気取りがあり、トップダウン方式であった。システムのことは分かっていると豪語した。
シルバーバーグの部隊はいわゆるマイクロソフト・キッズの集合体であり、やってはいけないかもしれないが、こうすれば速い式の実地優先で、ボトム・アップ方式であった。これもエンド・ユーザーのことは分かっていると豪語した。
1995年8月にウィンドウズ 95がリリースされた後、ウィンドウズの開発はすべてジム・オールチンが取り仕切ることになった。しかし、ブラッド・シルバーバーグは当時マイクロソフトにとって最重要課題であったインターネット用のブラウザの開発に転出し、ウィンドウズ 95の開発部隊のエリートのほとんどを吸収してしまった。そこでオールチン部隊とシルバーバーグ部隊の対立は、ウィンドウズ開発とウィンドウズ開発の対立という形になって表れた。
当時ブラウザ市場でネットスケープが80%のシェアを取っており、1995年12月7日、インターネット戦線での総反撃を宣言したマイクロソフトにとっての至上命題は、ブラウザ市場のシェアの奪取であった。従ってIEは無料で配られ、ウィンドウズとの親和性もあまり問題にされなかった。いわば、シルバーバーグ部隊の独走という形でブラウザはウィンドウズとは独立に開発されていたのである。インターネットで動くアプリケーションもウィンドウズのAPIでなく、インターネットのHTMLのAPIだけで処理すべきだという議論が出たくらいであった。こういう状況にオールチンは不満を募らせていった。
だが1997年10月1日に発表されたIE 4.0でマイクロソフトは一息ついた。6週間後にはIE 4.0のシェアは40%に上がった。すると社内でブラウザがウィンドウズを無視していることが問題になった。ウィンドウズが上位にあり、ブラウザは下位になくてはならないはずだ。そのうち、マイクロソフト社内では、ブラウザはウィンドウズのためになければならないという論理が支配的になった。
そこで、ジム・オールチンがウィンドウズとブラウザの開発を担当することになった。ブラッド・シルバーバーグはブラウザ開発から追放され、オフィス製品の開発にまわされた。
こうしてマイクロソフト内部での権力闘争は1997年9月末のブラッド・シルバーバーグの失脚をもって終了する。全権力はジム・オールチンが掌握することになった。こうした背景を理解すると、カイロあるいはウィンドウズ 2000の開発のもたつきも理解できる。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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