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IT業界の冒険者たち

第11回 3Comの柔和な帝王

脇英世
2009/5/26

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

エリック・ベナム(Eric Benhamou)――
3Com会長、元CEO

 エリック・ベナムは口ひげともじゃもじゃの髪に代表される独特な風貌をした男である。本人の姓「ベナム」はBenhamouと書くが、初めての人にとって正しく読むのは相当難しいだろう。1957年、アルジェリア生まれのユダヤ人である。出生地はアルジェリアとモロッコの境らしいが、文献によっては単に北アフリカ生まれとだけ書いてある。エリック・ベナムが生まれたアルジェリアは、長い間フランスの植民地であったが、1950年代に民族主義的な独立運動が盛んになり、動乱が続いた。そのため、ベナム一家はフランス本国に戻った。

 エリック・ベナムは子どものころから商才に長けていたらしく、それに関係した逸話が伝えられているが、大きくなってからはフランスの大学の工学部で学士号を取得している。さらにその後、米国に渡りスタンフォード大学で電気工学の修士号を取得した。エリック・ベナムがスタンフォードで学んでいる間、詩人としても知られる妻のイリアナ・ベナムは、テレジェンという会社で働いていた。イリアナもアルジェリア生まれで、グルノーブル、エルサレムで学んだ後、パリ大学で芸術学部歴史学科を卒業している。2人はとても仲の良い夫婦らしい。現在、エリック・ベナムは米国に帰化しており、米国人となってほぼ20年になる。

 エリック・ベナムは、スタンフォード大学の大学院在学中にゼロックスのパロアルト研究所を訪ね、ロバート・メトカーフの開発したイーサネットの原始形態を見学した。これがきっかけとなって、エリック・ベナムはコンピュータネットワークに憑り付かれたという。

 スタンフォード大学を卒業した後、エリック・ベナムは、同大学の教授で当時ザイログ社の研究開発担当責任者であったチャーリー・バスに誘われてザイログに入社する。ザイログでは、プロジェクトマネージャ、ソフトウェアエンジニアリングマネージャ、デザインエンジニアなどを経験したが、中でもZネットの開発が最も印象に残ったらしい。Zネットは初期の商業ローカル・エリア・ネットワークである。

 ザイログは面白い会社である。創業者の1人ラルフ・アンガーマンは、チャーリー・バスと組んでネットワーク専業会社であるアンガーマン・バスを設立した。ザイログがネットワークに関連した製品を取り扱うのは何の不思議もないようだが、もともとザイログは、インテルからスピンオフしたグループが設立した半導体メーカーなのである。ちなみに、同社はZ-80というマイクロプロセッサで伝説的に有名である。

 そしてスタンフォードからザイログにやってきたジュデイ・エストリンとビル・カリコは、エリック・ベナムを誘って1981年にブリッジ・コミュニケーションズを設立した。半導体メーカーのザイログからアンガーマン・バス、ブリッジ・コミュニケーションズという非常に有名なネットワーク関連企業が誕生したのである。

 ベナムらが設立したブリッジ・コミュニケーションズはIPルータなどの製品を作っていたが、1987年に3Comと合併した。3Comは1979年にロバート・メトカーフによって設立された会社である。ほぼ対等の合併であったが、ブリッジ・コミュニケーションズ派と3Com派の対立は深刻であった。ロバート・メトカーフら3Com派の社員はコンピュータを中心に考えていた。

 これに対しジュデイ・エストリン、ビル・カリコらのブリッジ・コミュニケーションズ派の社員はネットワークを中心に考えていた。この両者の対立は激しかったようだ。ロバート・メトカーフはコンピュータとネットワークのどちらを軸に事業展開していくのか、はっきり表明しなかったが、3Comをサン・マイクロシステムズのようなコンピュータ会社にしたいと考えていた。意見を取り入れられなかったジュデイ・エストリン、ビル・カリコはブリッジ・コミュニケーションズを退社してしまった。しかしエリック・ベナムは3Comに残留した。32歳という若輩ながら3Comのワークステーション事業を任されたからである。3ComのワークステーションはマイクロソフトのLANマネージャに準拠した3+Open(スリー・プラス・オープン)ソフトウェアを搭載していた。

 1988年、ロバート・メトカーフ率いる3ComはIBM、マイクロソフトと連合軍を結成し、LANマネージャによるネットウェア打倒を宣言した。ノベルとの全面戦争に入ったのだ。

 ところが、このLANマネージャ戦争は完敗に終わり、3Comは何らかのけじめをつける必要に迫られた。

 1990年当時、3Comは収入の多くをワークステーション事業から得ていたが、エリック・ベナムはワークステーション事業を放棄し、ハブやルータ、スイッチなどを中心とするネットワーク専業会社となることを主張した。これに対し、メトカーフは長時間の会議で必死に抵抗したが、結局3Comから追放された。そしてエリック・ベナムが社長兼CEOに選ばれ、同社の舵取りを任されることになった。

 当時3Comを訪問したことがあるが、坊主懺悔(ざんげ)に近い自己批判ぶりで少々あきれたのを覚えている。3ComはLANマネージャをすべて間違いとし、ネットウェアに塗り替えていた。むろん、これは偽装で時間稼ぎだった。

 エリック・ベナムは、まずNIC(ネットワーク・インターフェイス・カード)の販売に力を入れ、これを成功させた。さらにシンオプティクスと提携し、同社製のイーサネット・ハブを売り始めた。しかし、シンオプティクスのアンディ・ルドビックは3Comに庇(ひさし)を貸して母屋を取られるのを嫌い、3Comには大企業向けの本命であるトークンリング・ハブ製品を売らなかったのだ。

 そこでエリック・ベナムは一計を案じ、トークンリング・ハブを作っていた英国のBICCデータ・ネットワークスという小さな会社と提携し、その後、これを買収した。これによって3Comはイーサネット・ハブでもトークンリング・ハブでも成功した。さらに余勢を駆って、3Comはスタッカブル・ハブとLANスイッチ分野に進出した。この場合も買収戦略に頼り、イーサネット・スイッチ製品を入手するためにシナネティックスを買収した。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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