第45回 情報スーパーハイウェイの旗手
脇英世
2009/7/23
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
アルバート・ゴア(Albert Gore)――
アメリカ合衆国副大統領
クリントン政権を支えるアルバート・ゴア副大統領。日本では環境問題のエキスパートとしても有名でハト派的なイメージでとらえられているが、もともとは対日強硬派である。彼のシナリオどおり米国の情報産業は復活を遂げ、日本を大きく引き離しにかかっている。
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パソコン通信を使っている人はよく知っていることだろうが、電話網経由でのコンピュータ通信の伝送速度は極めて遅い。モデムを使用した場合、電話網経由での通信の原理的な限界は30kbps程度である。64kbpsのISDNも救世主とはならない。圧縮技術を使ったとしても、動画像を送るにはまったく伝送速度が足りない。電話網の伝送速度は絶望的に遅く、コンピュータ通信の足かせとなっている。
技術的には動画像を送れるほどの高速広域ネットワークはいますぐでも可能だが、電話会社は独占企業体であり、技術の進歩には無関心である。特に新鋭設備を導入しなくとも競争がないのだから、技術革新などということには興味がない。動画像を楽々送れるほどの高速な広域ネットワークの構築は21世紀半ばにならなくては無理だろう、といわれていた。
ところが極めて元気のよい指導者が米国に出現し、21世紀初頭には全米にG(ギガ)bpsのネットワークを張り巡らすといい出した。G(ギガ)という単位は、k(キロ)の100万倍である。多少センセーショナルないい方をすれば、現在のネットワークの100万倍高速なコンピュータ・ネットワークを作り上げるというのである。衝撃でないわけがない。このGbpsネットワーク、つまり情報スーパーハイウェイの構築を提唱したのが、現在の(編集部注:当時の)アメリカ合衆国副大統領アルバート・ゴアである。
アルバート・ゴアは、テネシー州選出の上院議員の息子として1948年ワシントンDCに生まれた。アルバート・ゴアの父親は、全米に通行料無料の高速道路を張り巡らすインターステートハイウェイ構想を推し進めた人として有名である。ハーバード大学を卒業した直後の1969年夏、陸軍に入隊した。陸軍では当初米国の基地勤務だったが、父親の上院議員落選後、1970年ベトナム勤務となり、1971年帰国する。ベトナムでの心の傷は大きかったようでヴァンダービルド大学の大学院に宗教学で入る。これも1年で中退し、地元の新聞社に就職する。1974年新聞社勤務のまま再びヴァンダービルド大学の大学院に戻るが、また中退する。
1976年アルバート・ゴアはテネシー州選出の下院議員に初当選する。なんと28歳であった。アルバート・ゴア下院議員は科学問題、核兵器問題、健康問題、教育問題、環境問題などに強いとの定評を得る。続いて1984年アルバート・ゴアは36歳で上院議員に当選する。さらに勢いをかって1988年に40歳で大統領選挙に立候補を決意する。大学卒業後の経歴のもたつきにもかかわらず、政治家としてデビューしてからは、とんとん拍子であった。しかしゴアは大統領候補としては残れなかった。政治家としての初めての挫折である。続いて1989年、ゴアの息子が瀕死(ひんし)の重傷を負う。この2つの事件でゴア上院議員の中で何かが変わったといわれている。
1991年、ゴア上院議員は4年越しの努力の結果、高性能コンピューティングおよびコミュニケーション法(HPCC)を成立させた。この法案では、対日撃滅戦略をにらんだ民間の次世代スーパーコンピュータ技術の開発と国立研究教育ネットワーク(NREN)の構築が骨子となっている。NRENはスーパーコンピュータを結んだネットワーク構築に重点がある。NRENによって解決しようとしている問題をグランドチャレンジ問題という。グランドチャレンジ問題には対日撃滅のための先端技術、軍事技術、環境問題のための技術と、いろいろ性格の違う技術的課題が交ざっている。
HPCCの考え方の根底には、日米貿易摩擦によって脅かされた米国の対日撃滅戦略があり、米国の大学や国立機関の研究所のスーパーコンピュータを結び、21世紀に重要となる先端技術の全分野において米国が日本をリードし、米国の優位を確保するという考え方がある。優位を確保する基本は知的所有権という目には見えにくい武器の活用である。
HPCCに引き続いてゴア上院議員は情報スーパーハイウェイに関するいろいろな法案を出す。時間とともに経済的弱者や、小企業、医療サービスなどへの気配りが付加され、さらにすべての米国人に役立つような情報インフラストラクチャの計画へと広がっていった。
1992年にゴア上院議員は『地球の掟』(小杉隆訳、ダイヤモンド社刊)という本を出版した。地球の温暖化を中心として地球環境保護の重要性を訴えたものである。彼の思想を知るうえで非常に重要な本である。
1993年1月、クリントン政権が成立する。アルバート・ゴアは副大統領となり、表舞台に立って、情報スーパーハイウェイを推進し始めた。ゴア副大統領は上院議員時代から比喩(ひゆ)的に使っていた情報スーパーハイウェイという言葉よりも次第に全国情報インフラストラクチャ(NII)という言葉を好むようになった。さらに1994年3月のブエノスアイレスで開かれた国際電気通信連合(ITU)の会議での演説からは、地球規模情報インフラストラクチャ(GII)という言葉を使うようになった。
NIIの目標は、2000年までにすべての教室、図書館、病院、診療所を情報スーパーハイウェイで結ぶことである。NIIの構築の実働部隊としては、情報インフラストラクチャ・タスク・フォース(IITF)が大統領府の中に作られた。IITFでは議長に並ぶものとしてNIIアドバイザリ・カウンシルがある。大統領が任命した27人の各界代表がその任に当たっている。議長の下には、3つの委員会があり、それぞれアプリケーションと技術、情報政策、通信を扱う。委員会の下には作業部会がある。アプリケーションと技術委員会の下には、技術政策、政府情報と技術サービスの2作業部会がある。情報政策委員会の下には、プライバシー、政府情報、知的所有権の3作業部会がある。通信委員会の下にはまだ作業部会はない。
NII推進に関する当初の考え方は、強力な国家主導型であったが、次第に考え方が変わってきた。現在の基本的な考え方は、情報スーパーハイウェイを建設するために、合衆国政府は必要な実際の標準や技術の開発に関与しないことであり、合衆国政府のなすべきことは、健全な規制環境を保証することであるとしている。
1993年9月に、NII構築のための行動アジェンダが発表された。続いて1994年1月、NII構築に関する5原則が発表された。以下のような内容である。
- NIIへの民間企業の投資を奨励する
- 民間企業間の競争を奨励し保護する
- NIIへのオープンアクセスを提供する
- 情報に関して「持てる者」と「持たざる者」ができることを阻止する
- 柔軟で責任ある政府の行動と規制
情報スーパーハイウェイは、いろいろ問題はあるものの、着々と実現の方向へ向かっている。情報スーパーハイウェイが完成すれば、動画像は楽々と送れるようになり、コンピュータ通信をはじめとするマルチメディアの世界は大きく変わることになるだろう。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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