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IT業界の冒険者たち

第46回 @Homeを立ち上げた新聞王の孫

脇英世
2009/7/24

第45回1 2次のページ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ウィリアム・R・ハーストIII世(William R. Hearst III)――
@HomeCEO

 『市民ケーン』という映画をご存じだろうか。オーソン・ウェルズが主演した映画であるが、モノクロだし、内容が暗そうな気がして若いときにはとても見たいとは思わなかった。第一『市民ケーン』なんて表題がおぞましく感じられた。しかし、長じて仕事の必要があって『市民ケーン』のビデオテープを買ってきた。たしか、テッド・ネルソンに関係して『ザナドゥ』を調べる必要があってのことだったと思う。早速ビデオテープを見て、食わず嫌いで損をしたと思った。

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 人によっては「薔薇のつぼみ」という謎解きが面白いのかもしれないが、わたしは主人公は実在の人なのではと興味を持った。ディビッド・ハルバースタムの『メディアの権力』を読んで『市民ケーン』の主人公チャールズ・F・ケーンとは、実在した米国の新聞王、ウィリアム・R・ハーストであることを知った。

 ウィリアム・R・ハーストは、米西戦争を引き起こしたことで有名である。キューバにフレデリック・レミントンという絵描きを派遣したことは、わたしも子どものころ、本で読んだことがある。キューバにいたレミントンは次のように報告した。

 「すべてが平穏です。何の事件もありません。戦争はないでしょう。帰りたいです」

 しかしハーストは、そんな報告は一切無視して有名な電報を送った。「そちらにとどまってくれ。君は絵を送ってくれ。わたしは戦争を送ろう」

 ハーストは、戦艦メイン号爆沈事件を挟んで、傘下の新聞に事実無根の挑発記事を繰り返し書かせて米西戦争を勃発させた。このように売れるネタをメディア自らが作り出してゆく手法をイエロー・ジャーナリズムという。この言葉ができたのもハーストがきっかけだといわれている。戦後、米国はキューバとフィリピンを領有した。これ以降、米国は世界中に海軍と海兵隊を派遣して市場獲得を目指す帝国主義に傾斜することになる。ウィリアム・R・ハーストはジャーナリズムの帝王になり大統領選挙にも多大の影響力を行使した。歴代の大統領は彼によって作り出された一面もある。

 ちなみにウィリアム・R・ハーストの孫娘が、かのパトリシア・ハーストである。1974年2月、SLAという極左グループに誘拐され洗脳され、米国資本主義を批判して、自動小銃で武装して強盗事件を起こし、映画にもなった。ベレー帽をかぶって自動小銃を抱えた写真が有名である。

 ここで取り上げるのは同じくウィリアム・R・ハーストの孫に当たるウィリアム・R・ハーストIII世である。

 ウィリアム・R・ハーストは1863年4月29日、サンフランシスコに生まれた。父親のジョージ・ハーストは、1820年にミズーリ州生まれで有名な鉱山王であった。山師という方がふさわしいのかもしれない。ジョージ・ハーストは、サウスダコタ州にコムストック銀山、ホームステーク金山、モンタナ州にアナコンダ銅山を所有していた。

 1865年にサン・シメオンに4万8000エーカーの土地を買った。ジョージ・ハーストは1887年から1891年に死亡するまでカリフォルニア州上院議員であった。この点『市民ケーン』とは違う。映画では貧しい家から出て大物になるという米国人好みのストーリーに直したのだろう。

 ウィリアムの母親のフォーベ・アパーソン・ハーストは、1843年生まれで、19歳でジョージと結婚しミズーリで教師をしていた。1873年、10歳のウィリアムを連れて、1年以上欧州旅行をし、博物館や文物を見て回った。貧しい人にはこんなことはできない。

 ウィリアム・R・ハーストは16歳のときニューハンプシャー州のセントポール・プレパラトリー・スクールに入学し、19歳のときハーバード大学に進学した。名門教育を受けたのである。

 1880年、たまたまジョージ・ハーストは、ギャンブルで勝って、『サンフランシスコ・エグザミナー』という日刊紙を発行している新聞社を手に入れた。あらくれ男の支配するワイルド・ウエストそのものである。

 1880年、ウィリアムは、ハーバード大学を中退して新聞事業をやりたいとの希望をしたためた手紙を父親に送った。父親は自分の鉱山業と牧場業を息子に継いでもらいたかったようだが、許可した。こうして1887年3月7日、23歳のウィリアムが、サンフランシスコ・エグザミナーの経営者になった。単なる金持ちの道楽だ、と揶揄(やゆ)する周囲を尻目に、彼は紙面改革に打ち込み優秀なジャーナリストを集めた。『市民ケーン』にあるとおりである。1895年、ウィリアムは後にハースト・コーポレーションの本拠地となるニューヨークに移った。このときから、アメリカ中の地方紙の買収が始まる。

 ウィリアムも父と同様、政治に進出し、1902年と1904年の2回、ニューヨーク州の下院議員に当選している。その間、1903年にウィリアムはミリセント・ウィルソンと再婚。その新婚旅行に、欧州を自動車で旅行中に『モーター』誌を創刊するアイデアを思いつき、以後雑誌の世界に進出する。1906年、ニューヨーク州知事を目指すが、落選してしまう。『市民ケーン』にあるとおりである。1920年代には活字メディアでは初めて、ラジオ放送に進出し、映画にも進出していった。

 1917年、ウィリアムは青い瞳の美しい踊り子マリオン・デイビスに巡り合う。『市民ケーン』にスーザン・アレクサンダーとして登場する女性である。ウィリアムは美しい踊り子に弱かった。マリオン・デイビスの存在を知っても、妻のミリセント・ウィルソンはウィリアムとの離婚には応じなかった。それでもウィリアムのマリオン・デイビスに対する愛情は変わらず、傘下の新聞、雑誌、放送、映画の総力を尽くしてマリオン・デイビスを有名な大スターにしようとした。思いはやまず1919年にはとうとう彼女のためのプロダクションまでつくった。これがコスモポリタンである。現在も売られている雑誌『コスモポリタン』はもともとマリオン・デイビスの宣伝雑誌だったのである。

 ウィリアム・R・ハーストは、父親の持っていたサンフランシスコの南の地サンタルチア山に1922年から20年以上をかけて「ハースト城」として知られるサン・シメオンという壮麗な城を築いた。これが『市民ケーン』ではフロリダのザナドゥとして登場する。インターネットで見られるが、あきれるくらいの贅(ぜい)を尽くした城である。この豪奢な城にウィリアムはマリオン・デイビスとともに1947年まで住んだといわれる。

 マリオン・デイビスの希望で、1947年から2人はサン・シメオンを去って、ビバリーヒルズに住んだ。ウィリアムは1951年8月14日マリオン・デイビスにみとられて亡くなった。享年88歳であった。

 ウィリアム・R・ハーストのつくった帝国、ハースト社は、現在でもニューヨークに存在している。主要な雑誌だけでも十数誌ある。『コスモポリタン』『エスクァイア』『マリ・クレール』などはご存じだろう。TV局は地方局が中心だが依然26社、加えてラジオ局が7社ある。新聞については、日刊紙が12紙、週刊の新聞が18社ある。さらに投資専門の会社が3社、ビジネス・メディア関係が16社、ケーブルテレビ関係が7社、インタラクティブ関係が12社、不動産会社が3社もある大企業である。ウィリアム・R・ハーストの死後、サン・シメオンはカリフォルニア州に寄付され、ハースト帝国は衰えたが、それでもこれだけの陣容なのだから、全盛時代はどの程度のものだったのだろうか。

 ウィリアム・R・ハーストIII世は、ウィリアム・R・ハーストの孫であり、1949年生まれである。1972年ハーバード大学の数学科を卒業した。卒業後はハースト帝国の一翼を担うハースト・ケーブル・コミュニケーションの副社長を務めていた。

 ウィリアム・R・ハーストIII世は、1984年から1995年までサンフランシスコ・エグザミナー新聞社の編集者兼発行人を務めた。祖父がハースト帝国をつくった最初の会社に入社したわけである。ウィリアム・R・ハーストIII世はサンフランシスコ・エグザミナーで、カラー印刷、コンピュータによる写真編集、ニュース・グラフィックス、ページ・レイアウトの改善、オンライン・パブリッシングの導入など、先進的な業績を上げ、ウィリアム・R・ハーストの再来のように期待されたのである。

 ウィリアム・R・ハーストIII世は祖父の帝国に安閑としているのが嫌だったのだろう。1995年ウィリアム・R・ハーストIII世は、ハースト社を離れて、有名なベンチャー投資銀行KPCB(クライナー&パーキンス)のジェネラル・パートナーの1人になった。

 KPCBは@Home(アット・ホーム)社に投資していた。@Homeは1995年8月にTCI、コックス・コミュニケーションズ、KPCBなどのジョイント・ベンチャーとして設立された。

 ウィリアム・R・ハーストIII世は1995年8月@Home社に送り込まれて、最高経営責任者(CEO)になった。祖父にならった手腕を期待されてのことである。@Home社はこれまでの電話回線に代えて、ケーブルテレビの回線にケーブル・モデムを使って、ブロードバンドの通信を実行しようとした。

 1999年1月23日、@Homeは67億ドルでポータル・サービス業界2位のエキサイトを買収した。

 エキサイトを作ったのはカリフォルニア州クーパティーノのロックウッド・ドライブのガレージを根城にしていた6人のスタンフォード大学の卒業生である。彼らは、マーク・バン・ハレン、ライアン・マキンタイア、ベン・ラッチ、ジョー・クラウス、グラハム・スペンサー、マーティン・レインフリードであった。ジョー・クラウスだけが政治科学専攻であった。全員ブリトーという肉やチーズなどをトリティーヤで包んだメキシコ料理が好きであった。

 1993年2月28日、6人はレッドウッド・シティーの安いメキシコ料理店でアーキテクスト・ソフトウェアという会社をつくることに決めた。アーキテクストはインターネットで入手できる多量の情報を管理するソフトウェア・ツールを作ることにした。

 自動ハイパーテキスト・リンキング、サブジェクト・グルーピング、自動アブストラクティングなどの機能を備えた検索抽出ツールが開発され、これがエキサイトサーチになった。

 アーキテクストはベンチャー資本に資金の提供をしきりに求めたが、応じるところがなかった。だが1994年12月、ベンチャー資本のKPCBが資金の提供を申し出た。有名なビノッド・コースラが最初に提供を申し出た金額はハードディスク装置の40万円ということであったから、どのくらい貧弱な会社であったか、想像がつく。

 1995年10月、アーキテクストはエキサイトサービスの提供を始めた。非常な人気を呼び、エキサイトサービスはマイクロソフトのMSNやネットスケープにもサービスを始めた。そのためアーキテクストはエキサイトと社名を変更した。

 エキサイトは1996年4月、株式を17ドルで公開した。

 1996年、エキサイトはマゼラン、ウェブクローラーのライバル2社を買収した。

 そして1999年1月23日、エキサイトは@Homeに67億ドルで買収された。エキサイトはヤフーにどうしてもかなわなかったのである。@Homeにはコンテンツが不足していた。また@HomeもエキサイトもKPCB系列であった。従ってKPCB系列の統合再編と見ることもできる。また良いところだけを見ればよいが、67億ドルは高すぎたといわれた。買収後の社名はエキサイト@Homeになった。

 ここでAT&Tが登場する。1999年3月、AT&Tの会長であるマイケル・アームストロングは540億ドル(5兆4000億円強)の巨額でジョン・マローンのTCIを買収した。ジョン・マローンについては拙著『パーソナルコンピュータを創ってきた人々』で述べている。ジョン・マローンのTCIには100億ドルの負債があり、AT&Tに買収してもらえなかった場合には経営が行き詰まってしまうところであった。

 つまりジョン・マローンはマイケル・アームストロングのAT&Tに、体よく借金の肩代わりをさせた。

 ジョン・マローンは形式的にはAT&Tの傘下に収まったリバティ・メディアの運営に専念することになった。リバティ・メディアはタイム・ワーナーの筆頭株主、ルパート・マードックのニューズ・コープの第2位の株主であった。ジョン・マローンは1991年TCIからコンテンツ部門のリバティ・メディアを分離しておいたのである。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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