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IT業界の冒険者たち

第57回 悲運の英雄、CP/Mの開発者

脇英世
2009/8/13

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ゲアリー・キルドール(Gary Kildall)――
CP/M開発者

 1994年7月6日夜、カリフォルニア州モントレーの下町、フランクリン・ストリート・バーで、ハーレーダビッドソンのバッチを付けた革ジャンパーの男が頭部に内出血を起こして倒れていた。バーでのけんかを原因とする説が最も有力視されているが、真相は謎に包まれたままである。結局、7月11日に男は息を引き取った。ゲアリー・キルドール、享年52歳。最初のマイコン用OSであるCP/Mを開発した男の最期は、実に悲劇的なものだった。

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 ゲアリー・キルドールは1942年にワシントン州シアトルに生まれた。偶然の一致だが、興味深いことにマイクロソフトのビル・ゲイツもシアトル出身である。1924年に祖父が創立し、父親がその後を受け継いでいたキルドール航海術カレッジで、高校卒業後の1960年から1962年まで、つまり18歳から20歳まで教鞭を執っていた。しかし、高校時代のガールフレンドであったドロシー・マキューエンとの結婚後、一念発起して、数学教師になるべくワシントン州立大学に入学している。大学入学後、学業は順調に進んだようで、1967年にワシントン州立大学の数学科を卒業すると、1968年には同大学院の数学科修士課程を修了した。在学中に数学よりコンピュータに興味が移っていったようで、1972年には同大学院のコンピュータ科学科で博士号を取得している。

 当時、アメリカはベトナム戦争の苛烈化によりむしばまれていた。そうした状況下で、ゲアリー・キルドールは海軍の予備役を志願している。これにより、ベトナムに従軍することなく、モントレーにある海軍大学院にいて教鞭を執っているだけで済んだのである。

 さて、ある日のこと、ゲアリー・キルドールは海軍大学院のキャンパスで、インテル最初の4ビットマイクロプロセッサであるi4004の広告を見た。レジス・マッケンナが作った「25ドルのコンピュータ」という広告であった。これに興味をそそられ、25ドルを払ってi4004を1つ購入した。ただし、これを用いたマイクロコンピュータは作らなかったのではないか、といわれている。確かにi4004は25ドルで入手できたものの、実際に動作させるとなると、さらに数千ドル分の追加投資を必要としたのに加え、ゲアリー・キルドール自身、ハードウェア方面があまり得意ではなかったからである。

 インテルからi4004用のマニュアルを取り寄せたゲアリー・キルドールは、命令コードのセットを読んでプログラムを書き始めた。まずは、父親が欲していた航法プログラムを作成し、プログラムが完成すると、売り込みのために自らインテルを訪問した。インテルはプログラム自体には興味を示さなかったが、マイクロプロセッサ部門のコンサルタントとしてゲアリー・キルドールを雇った。そこで、インテルの8ビットマイクロプロセッサであるi8008用の高級言語PL/Mを書いている。PL/MはIBM S/360上で動作し、生成されたバイナリコードはROMに焼き付けられた。ちなみに、PL/MはIBMのPL/I 言語に範をとったといわれている。

 いまにして思えば、マイクロコンピュータで成功した人物は、ゲアリー・キルドールに限らず、ビル・ゲイツやポール・アレンにしても、シミュレータでソフトウェアを書くタイプで、ハードウェアに熱中するタイプではなかった。

 1972年3月、インテルはi8008をリリースした。ゲアリー・キルドールは、再びインテルに雇われ、i8008用のPL/Mを開発した。その際、i8008用の開発システムである「インテレック-8」を自ら1台購入して教室に設置したという。インテルはi8008の成功に続いてi8080を発表し、それとともにゲアリー・キルドールも、i8080用のPL/Mを開発した。今度は、インテルがゲアリー・キルドールにi8080用の開発システム「インテレック-80」を1台贈ったらしい。この開発システムには、紙テープリーダとディスプレイ装置が備わっていた。しかし、この開発装置には有効な外部記憶装置がないのが難点だった。

 そこで、1973年にアラン・シュガートが設立したシュガート・アソシエイツに赴き、そこで働いていた友人からテスト用のフロッピーディスクドライブを1台分けてもらった。自分ではうまくいかなかったので、友人のジョン・トローデに、フロッピーディスクドライブを自分の開発システム「インテレック-80」に取り付けられるように制御用のインターフェイスを製作してもらった。これにより、ゲアリー・キルドールの開発システム「インテレック-80」は、本格的なマイクロコンピュータになった。

 1974年、ゲアリー・キルドールはフロッピーディスクドライブを十分生かせるようなプログラムをPL/Mで書いた。これがマイクロプロセッサ用として初のOSであるCP/M(Control Program for Microcomputers)である。CP/MはDECのOS、PDP-10 VMSに影響を受けていたといわれる。ゲアリー・キルドールはCP/Mをインテルに2万ドルで売ろうとしたが、インテルはCP/Mを買わずにPL/Mを買った。

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