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IT業界の冒険者たち

第57回 悲運の英雄、CP/Mの開発者

脇英世
2009/8/13

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 1976年、ゲアリー・キルドールは海軍大学院を辞め、フルタイムのコンサルタントになった。そして、妻のドロシー・マキューエンとともにインターギャラクティック・デジタル・リサーチという会社を創立している。このSF的な社名は、後にデジタル・リサーチと改められた。『Dr.ドープス・ジャーナル』という雑誌に広告を出してCP/Mを90ドルで販売するという細々としたビジネスだった。

 しかし、転機はいつしか訪れるものである。フロッピーディスクドライブの需要が高まってきたのである。1975年にパソコンの原型となる世界初のマイコンキット、オルテアー8800を発売したMITS(Micro Instrumentation and Telemetry Systems)は、ビル・ゲイツとポール・アレンの書いたDISC BASICを提供したが、動作は不安定でパフォーマンスも良くなかった。オルテアーの成功に続き、同様のマイコンキットIMSAI 8080を発売したIMSAIは、当初個別ライセンスをしていたが、2万5000ドルでCP/Mの一括ライセンスを取得した。これを機に各社はIMSAIに続いた。内職がビジネスになったのである。

 そこでゲアリー・キルドールは、新しいハードウェアに搭載しやすいようにCP/Mを書き直した。このときにBIOS(Basic Input Output System)を書いて、ハードウェア依存性を除去している。また、エディタ、アセンブラ、デバッガなどのユーティリティも作成した。1978年にはマイクロソフトもCP/M用のBASIC、FORTRANを開発し、当時の代表的なアプリケーションは、CP/M用に書かれるようになった。

 1980年、IBMは翌年発売するIBM PC用BASICのライセンス交渉をマイクロソフトと行った。続いて、CP/M-86のライセンス交渉のためにデジタル・リサーチを訪ねている。まずIBMと面会したのは、当時すでにゲアリー・キルドールとは離婚していたものの、社には残っていたドロシー・マキューエンで、機密保持誓約書へサインしようとはしなかった。肝心のゲアリー・キルドールは不在で、伝説によると、趣味である飛行機を乗り回していたため、遅れて到着したという。交渉は昼夜を通じて行われたが、ゲアリー・キルドールがライセンス譲渡に20万ドル要求したため難航した。一方、OSに乗り出す覚悟を決めていたビル・ゲイツは、5万ドルしか要求しなかった。他メーカーへのライセンスでもうけようとしたのである。ビル・ゲイツの方が一枚上手で、結局IBMはマイクロソフトと手を結ぶこととなった。

1979年、SCP(Seattle Computer Products)はi8086キットを発売し、これを動かすソフトウェアのためティム・パターソンを雇った。ティム・パターソンはCP/Mを模倣して独自にi8086用のQDOSを書いた。CP/Mの機能をすべて搭載したわけではなかったが、要領よくCP/Mの優れた点だけを取り入れた。

 1980年8月にSCPはQDOSをマイクロソフトに提示し、10月にマイクロソフトはSCPからQDOSを5万ドルで買い取った。これがIBM PC用であることはSCPには伏せられていた。マイクロソフトは直ちにティム・パターソンを雇い、IBM PC用に書き直させた。これが1981年8月にIBMからPC-DOS、マイクロソフトからMS-DOSとして出荷された。本家デジタル・リサーチのCP/M-86は、出遅れたうえ、MS-DOSが価格60ドルだったのに対して、240ドルと高価で、当然のことながら敗北した。

 MS-DOSは著作権の侵害に当たる恐れがあることを、マイクロソフトはもちろんIBMも十分承知していたといわれている。実際、デジタル・リサーチは著作権法違反で告訴することもできたが、ゲアリー・キルドールがIBMを相手に争うことをためらったため、勝機は永遠に失われてしまった。素早いマイクロソフトが勝利を収めたのである。

 その後、ゲアリー・キルドールはコンカレントCP/M、GEM、LOGO、CD-ROMなど先駆的な製品の開発に取り組んだが、どれもビジネスとして成功しなかった。遊びと道楽が過ぎて、ビジネスとしての執念深さが足りなかったようである。1988年にはCP/M-86をDR-DOSと改称し、マイクロソフトに最後の戦いを挑んだ。しかし、マイクロソフトは得意のマーケティングでDR-DOSを包囲したうえ、DR-DOS互換機能を取り入れて逆襲し、これを粉砕してしまった。万策尽きたともいえる1991年、デジタル・リサーチはノベルに売却されている。

 ビジネスに敗れたとはいえ、資産的には潤ったゲアリー・キルドールは、西海岸のほかにもオースチンに大邸宅を建て、14台のスポーツカーを所有し、屋敷の地下にはビデオスタジオを構えた。個人用ジェット機、ヨットを持つなど、贅(ぜい)の限りを尽くしたようである。それでも、鬱屈(うっくつ)した精神は慰められなかったのだろう。殴り殺されかねない下町のバーに出入りしていたのはその表れといえるかもしれない。

 ゲアリー・キルドールの死後、デジタル・リサーチはカルデラに売却された。1997年のことである。

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