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IT業界の開拓者たち

第4回 ビル・ゲイツとドッグファイトを演じた男

脇英世
2009/2/5

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ジェームズ・キャナビーノ(James Cannavino)――
元lBM OS/2最高責任者

 ジェームズ・キャナビーノは、スーパーマーケットの一店員からIBMの副社長まで上り詰めた人物である。IBMのOS/2 推進役として、マイクロソフトとビル・ゲイツへの攻撃の急先鋒だった。その彼が味わった栄光と挫折について、振り返ってみよう。

 ジェームズ・キャナビーノは、米イリノイ州のウエストメンローパークで育った。名前からも分かるようにイタリア系の人である。キャナビーノが17歳のとき、高校のガールフレンドとの間に子どもが生まれ、高校卒業後、彼女と結婚した。キャナビーノは家族の生活を支えるため、数時間の睡眠しか取らずに働いた。スーパーマーケットで働くだけでなく、家族が経営しているピザパーラーでも働いた。

 キャナビーノはスーパーマーケットのある部門のマネージャになったが、別の部門のマネージャがいなくなるとそれを引き受け、さらに別の部門のマネージャがいなくなると、またそれを引き受け、朝の6時から夜10時まで働いて3倍の給料をもらった。また、シカゴ近郊のデブリィ技術学院に電気を習いに行った。若いとはいえ、恐るべきスタミナの持ち主である。

 ある日、スーパーマーケットの統合があり、経営者はキャナビーノに3倍の給料を払うのを停止した。そこでキャナビーノはほかの仕事を探しにバスに乗り、シカゴ目指して出かけた。キャナビーノの乗ったバスの終点は、たまたまオークパークであり、そこにはIBMの支社があった。キャナビーノは、独特の押しの強さでマネージャに面会していった。「6カ月で最良の修理工になってみせます。なれなかったら、潔く仕事を辞め、給料の小切手はすべてお返しいたします」

 こうしてキャナビーノはIBMに潜り込むのに成功し、その中でどんどん出世していった。そして1988年末、キャナビーノはIBMのパソコン責任者になる。

 パソコン責任者に着任してからキャナビーノは、IBMとマイクロソフトが開発しているOS/2のソースコードを自分で調べてみた。キャナビーノは若いころ大型コンピュータのプログラミング部門で働いた経験があるので、ソースコードのコメント(注釈)を読めば、ある程度のことは分かることを知っていた。キャナビーノが見ると、OS/2の開発計画はずさんそのもので、救いがなかった。客観的に見れば、この時点でもうOS/2はまともな計画としては終了であった。しかし、IBMはOS/2の開発を顧客に約束してしまっている。引くに引けない。引けないとすると、無意味に毎年何億ドルというお金がIBMから流れ出すだけだ。計画を止められないとすれば、出費を抑えるしかない。

 キャナビーノは、MS-DOSのロイヤルティーをマイクロソフトだけが徴収しているのは不公平だから、契約を改めて、ロイヤルティーは50%ずつにしようと切り出した。ビル・ゲイツは、この主張に激怒し、このためIBMとマイクロソフトの関係は冷え込んだ。次にキャナビーノは、IBMの方が多数のプログラマを投入し、多数のコードを書いているのだから、開発費用の分担を見直すべきだと提案した。ビル・ゲイツは、プログラムのコードは量でなく質だと反論した。ここまで不信をあらわにしたなら、もう決裂しかないはずである。傷を大きくしたのは、この時点で決裂の道を選べなかったことだ。

 1989年11月13日、IBMとマイクロソフトは共同声明を出す。この声明では、上位のパソコンにはOS/2を使い、普及機のパソコンにはウィンドウズを使うことを認めたが、同時にOS/2へ移行するようにも勧めていた。この声明でIBMはウィンドウズを認めたことになり、世間ではマイクロソフトの独り勝ちと受け止められた。キャナビーノは、ますますイライラを増幅させることになる。

 しかし、マイクロソフトの方もIBMとOS/2を見捨てることはできなかった。この段階でOS/2開発の基本方針をめぐる対立が蒸し返された。ビル・ゲイツは、OS/2をインテル286用でなく、386用にするよう要求した。これはOS/2が286を搭載するIBM PC/AT用として計画されたことを考えると、無茶な要求だ。

 このころIBM支持派の中には、映画『ゴッド・ファーザー』の中でイタリアンマフィアがやったように、ビル・ゲイツのベッドの中に馬の首を入れておいてやれ、と悪い冗談をいった者もいたそうである。

 1990年9月10日、『インフォワールド』誌にロバート・X・クリンジリーがIBMとマイクロソフトの不仲を決定的にするコラムを書いた。ウィンドウズ3.0の発表にさかのぼること2週間、ビル・ゲイツはロータスの製品部長のジョージ・ギルバートたちと飲んだ。この会話の中でビル・ゲイツはIBMとキャナビーノをこきおろしたらしい。居合わせたロータスのギルバートが、約6ページにわたってビル・ゲイツの言動を記したメモを上司に提出した。このメモはロータスのジム・マンジ会長に渡り、それがIBMのジェームズ・キャナビーノの手に渡った。そしてそれがどういう経路からか、ロバート・X・クリンジリーの手に渡り、大暴露記事に発展したのである。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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