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IT業界の開拓者たち

第13回 ウィンドウズの開発に貢献した男

脇英世
2009/2/20

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ブラッド・シルバーバーグ(Brad Silverberg)――
元マイクロソフト上級副社長、イグニッションCEO

 ブラッド・シルバーバーグは、1954年にアメリカ北東部のオハイオ州クリーブランドのビーチウッドで生まれ、シェイカーハイツとビーチウッドで育った。高校時代の得意科目は政治科学と歴史であり、数学は好きだったが科学は嫌いであったという。1972年、高校を卒業すると、ロードアイランド州のプロビデンスにあるブラウン大学に入学した。ブラウン大学を選択した理由は、数学や科学が必修ではなかったから。将来は弁護士になることを希望していた。1年生のときにたまたまコンピュータの科目を取った。何度も脱落しそうになったが、次第にシルバーバーグはコンピュータに夢中になった。結局、近代ヨーロッパ史からコンピュータ科学に専攻を変更し、構造化プログラミングを研究することにした。具体的には、構造化FORTRANなどであったらしい。ブラウン大学を卒業すると、指導教官の勧めにより、トロント大学コンピュータ科学科の修士課程に入学、これを修了している。

 シルバーバーグは、ブラウン大学時代の先輩の手引きによりインテルに入社しようとしたが、同社には早朝8時前から就業するきまりがあった。このことが、同社への就職をあきらめさせたという。早起きが苦手だったらしい。ブラウン大学の先輩とはインテルの386、486、ペンティアムなどを設計することになるジョン・クロフォードだった。インテルへの入社を断念したシルバーバーグは、カリフォル二ア州のメンロー・パークにあるSRI(スタンフォード・リサーチ・インスティチュート)で、コンピュータ科学分野の仕事をすることにした。その仕事は、SRIとMIT(マサチューセッツ工科大学)を、ARPANETによって接続して行うものであった。SRIには、2年間ほど勤めている。

 SRIを辞めた後は、エクソン・オフィス・システムにしばらく勤め、その後アップルに入社した。アップルでは、LISA用のLANの開発に従事している。マッキントッシュに関しては、スティーブ・ジョブズにいろいろ意見をいったようだが、あまり受け入れられなかった。

 やがて同僚のエリック・マイケルマンが、アナリティカというデータベースの会社をつくるためにアップルを辞めると、シルバーバーグも彼らに付いて行くことにした。アナリティカは、1985年にフィリップ・カーン率いるボーランド・インターナショナルによって買収されている。これに伴い、シルバーバーグは自動的にボーランドの社員になった。

 1989年に入ると、マイクロソフトからのヘッドハンターが接触してくるようになる。当初マイクロソフトが提案したポストはデータベースとスプレッドシートの開発であったが、シルバーバーグはこれが気に入らなかった。年末になって、ウィンドウズの開発をやりたいと逆に提案して自分を売り込んだ。1990年3月30日、シルバーバーグはついにボーランドを辞職した。同社での最後の役職は、技術担当副社長であった。同年6月にマイクロソフトへ移ると、ウィンドウズ3.1の開発を担当した。5月22日にウィンドウズ3.0が出たばかりのころである。

 1992年4月6日、マイクロソフトはウィンドウズ3.1を出荷した。続く同年11月15日にはWfW 3.1をリリースし、1年後の1993年11月15日にはWfW 3.11を発売した。このほかにも、シルバーバーグはDOS 6.0、DOS 6.2を担当している。仕事は順調であった。ウィンドウズでの好調な業績を背景にして、1992年に開発が始まったウィンドウズ 95では、主導的な役割を果たした。

 一方、ジム・オールチンはウィンドウズ NTの開発において、次第に影響力を持つようになった。1993年に行われたウィンドウズ NT 3.1の開発こそ、ディビッド・カトラー主導で進められたにしても、1994年のウィンドウズ NT 3.5、1995年のウィンドウズ NT 3.51といった開発では、その影響力を強めていった。当時、ウィンドウズ NTにおける戦略目標はネットウェアであり、LANに強いオールチンの発言力が強くなるのは必然であった。

 1994年11月、オールチンはIE(インターネット・エクスプローラ)の開発に介入し始めた。当時はウィンドウズ 95シェル、カポネ、マーベルなどが併存しており、インターネットブラウザの開発は混乱していたのである。翌1995年になると、ウィンドウズとIEはシルバーバーグの勢力下に、ウィンドウズ NTはオールチンの勢力下に、という構図がはっきりしてきた。これにより両者の対立は決定的になり、猛烈な闘争が繰り広げられることになる。

 1996年にウィンドウズ NT 4.0が登場し、ウィンドウズ NT 5.0(ウィンドウズ 2000)の開発が問題になると、形式的にはシルバーバーグが指揮を執っていたものの、実質的な開発指揮はオールチンに引き継がれた。シルバーバーグはといえば、IEの開発に専念していた感がある。

 1997年、シルバーバーグは9月30日のIE 4.0の完成を前にして、6月28日からしばらくサバーティカル休暇を取った。ワシントン州アーリントンからカナダのロッキー山脈に自転車旅行をした。途中ドイツを旅行中の子どもが急性虫垂炎で入院したと聞き、自転車旅行を中止してドイツに駆けつけるなどいろいろあった。帰ってみると、マイクロソフト社内には彼の居場所がなくなっていた。やはり洋の東西を問わず、サラリーマンはあまり長い休暇は取ってはいけないようである。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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