第13回 ウィンドウズの開発に貢献した男
脇英世
2009/2/20
1997年10月1日に発表されたIE 4.0でマイクロソフトは一息ついた。それまで、ブラウザ市場でネットスケープが80%のシェアを取っており、マイクロソフトの至上命題はブラウザ市場のシェアの奪取であった。ブラウザはウィンドウズとは独立して開発されていたのである。
司法省がマイクロソフトの独占禁止法訴訟で証拠として提出した電子メールがある。1997年3月ジム・オールチンがポール・マリッツにあてたものである。
「ウィンドウズ 98とウィンドウズ NT 5.0からIE 4.0を落とすべきです。こうすべき強力な理由があります。われわれは数百人の時間を動作しないビルドに浪費しています。前進するためには率直にいってそうしなければなりません」
ウィンドウズ NT 5.0を担当するオールチンが、IE 4.0を担当するシルバーバーグにいらつきを感じている様子がよく分かる。
インターネットで動くアプリケーションもウィンドウズのAPIでなく、インターネットのHTMLのAPIだけで処理すべきだという議論も出たくらいであった。
だがIE 4.0でブラウザ市場のシェアの奪取は確実になった。実際に6週間後にはIE 4.0のシェアは40%に上がった。
するとブラウザがウィンドウズを無視していることが問題になった。ウィンドウズが上位にあり、ブラウザは下位になくてはならない。ブラウザはマイクロソフトのウィンドウズのためになければならないという論理が支配的になった。
そこで、ジム・オールチンがウィンドウズとブラウザの開発を担当し、ブラッド・シルバーバーグはブラウザから追放され、オフィス製品の開発を担当することになった。
こうして実質的にマイクロソフト社内にはシルバーバーグの居場所がなくなってしまった。油断というものだろう。居場所のなくなったシルバーバーグはサバーティカル休暇を延長した。
1997年末に近くなって、マイクロソフトはAOLと対決し始めた。ビル・ゲイツは、AOLを打倒するためには、ブラッド・シルバーバーグが必要であると判断した。
12月22日、ビル・ゲイツはポール・マリッツ、ジム・オールチン、ブラッド・シルバーバーグらを集めて会議を開き、「ブラウザは、やはりブラッド・シルバーバーグに任せる」との裁定を下した。ブラッド・シルバーバーグのインターネット部隊は原隊復帰を果たし、ブラッド・シルバーバーグもやれやれと、ウィッスラーというスキー場へ行ってしまった。
収まらないのはジム・オールチンで、翌日、上級副社長たちにビル・ゲイツの決定と、この決定がマイクロソフトのためにならないことを訴えた。檄を飛ばした形である。これは帝王ビル・ゲイツに対する一種のクーデターというものだろう。ビル・ゲイツの決定を公然とひっくり返そうとしたことは、それまでに例がない。
普通ならジム・オールチンが即日、首で終わりだが、この場合は違った。クリスマスを過ぎたころ、ポール・マリッツが動いたのである。ポール・マリッツは自分は考えを変えましたとビル・ゲイツに告げた。ブラウザはブラッド・シルバーバーグでなく、ジム・オールチンの管轄下に置かれるべきであると主張した。ビル・ゲイツはこの意見をのんだ。
ポール・マリッツは、ブラッド・シルバーバーグの部下を呼び、決定を伝えた。これを聞いたシルバーバーグはポール・マリッツにどなりこんだが、「考えが変わった」で一蹴(いっしゅう)されてしまった。シルバーバーグは3度目のサバーティカル休暇に戻り、流浪の人となった。1998年から1999年にかけて、形式的にはビル・ゲイツの頼みという形でシルバーバーグはマイクロソフトの戦略コンサルタントになった。
この事件以来、ゲイツの絶対権力は多少弱まり、マイクロソフトの事実上の最大権力者はポール・マリッツになってしまった。またジム・オールチンは開発分野全体にわたって全権を掌握し、シルバーバーグ派を一掃、その痕跡までも消してしまった。権力闘争とでもいうべきものだろう。
1998年、スティーブ・バルマーは、レッド・ウェストで執務していたが、シルバーバーグに一室を貸し与えていた。シルバーバーグはバルマーの参謀格になったのである。バルマーはMSNをはじめとするマイクロソフトが抱えている多くの問題の解決のために、シルバーバーグの本格的復帰を望んだ。しかし、シルバーバーグはマイクロソフト内部での権力闘争を前に逡巡した。
1999年2月にはマイクロソフトの大規模な組織改編のためにシルバーバーグがマイクロソフトに呼び戻されるといううわさが立った。1999年3月マイクロソフトの大規模な組織改編が発表されたが、シルバーバーグの姿はどこにもなかった。このときを最後にシルバーバーグは完全にマイクロソフトを去った。
1999年7月にシルバーバーグは、テルミー・ネットワークスに投資した。このとき、元ネットスケープ社長のジム・バークスデールも同時にテルミー・ネットワークスに投資して話題を呼んだ。このあたりで明確にシルバーバーグのマイクロソフト離れの姿勢がはっきりした。現在シルバーバーグはテルミー・ネットワークスの顧問である。
シルバーバーグはある日、シアトルのレストランですしをつまんでいたが、ふと手にした雑誌に日本人の若い女の子が携帯電話を操作している写真があったのを見たという。シルバーバーグはこれをある種の天啓と受け取った。シルバーバーグはすぐに行動に移り、2000年3月9日、資本金1億4000万ドルでワイヤレス専門の投資会社であるイグニッションをつくり、会長かつ最高経営責任者になった。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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