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IT業界の開拓者たち

第17回 アジアの電脳王

脇英世
2009/2/26

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

スタン・シー(Stan Shih)――
エイサー創業者

 少し前、日本のパソコンメーカーのIBM PC/AT互換機はほとんど台湾のエイサー(ACER)のOEM製品だった。このエイサーを率いる総帥がスタン・シー(Stan Shih:施振栄)である。チェン・ロンが本名だが、1987年、外国人に覚えやすい名前としてスタン・シーを選んだ。本名とは、特に何の関係もないそうである。

 1944年、スタン・シーは台湾の台北から170キロ南にある鹿港で生まれた。スタン・シーが3歳の時に父が亡くなり、少年時代は母とともにアヒルの卵を売ったり、文房具を売るなどして家族を養わなくてはならなかった。スタン・シーは、よくアヒルの卵と文房具の話をする。文房具は50〜60%と利益率は高いが回転が遅く、アヒルの卵は利益率は10%と低いが回転が速い。結果的にアヒルの卵の方がもうかった。そうスタン・シーがいっている記事もあれば、逆の結論を出している記事もある。卵は2、3日しかもたず、文房具は半年も置けたというのである。なかなか食えない、したたかな男なのだろう。

 スタン・シーは、計算が速く利発な子どもであった。商売には特別な才能を持っていたようだ。高校を優秀な成績で卒業し、1968年、国立交通大学を首席で卒業した。その後1年間軍務につき、除隊後、1971年に大学院で修士号を取得した。大学でスタン・シーは勉学よりも卓球、バレーボール、写真、チェス、ブリッジのクラブに参加し、社交性と指導性を身に付けた。

 スタン・シーは博士課程に進むことも考えたが、1971年、故郷の林一族の林栄春が投資していたユ二トロン・インダストリアル・コープ(環宇電子)に入社した。ユニトロンは台湾北部の竹北にある。ユ二トロンに入社したスタン・シーは、1972年、台湾初の電卓を開発した。正確にいえば商品化した。スタン・シーは商人で、技術者ではないようである。電卓の開発においてスタン・シーは、工業デザイナーに外装を設計させ、技術者を招いて試作品を作らせた。できた電卓はほとんど売れなかったという。その後スタン・シーは、研究・開発部門から生産ライン部門に移った。

 1972年、スタン・シーは林一族のビンセント・リン(林森)が設立したクオリトロン・インダストリアル・コープ(栄泰電子)に移った。クオリトロンでスタン・シーは、技術者株を与えられ、取締役のいすももらった。スタン・シーは、ここでペン時計を開発した。これはさほど革新的な製品ではなかったが、商業的には成功した。スタン・シーは、商品は売れなくては意味がないという信念を持った。

 その後スタン・シーは、米国のロックウェルにマイクロプロセッサの買い付けとその応用について学ぶために派遣された。帰国後は、台湾でマイクロプロセッサの知識を広めた。クオリトロンは石油ショックに遭遇して、1976年、赤字を出さないうちに自己倒産する道を選んだ。

 そこで1976年、スタン・シーはマルチテク・インターナショナル・コープを、妻のキャロライン・イエー(葉紫草)とケン・タイ(台中和)、ジョージ・ファン(黄少華)、フレッド・リン(林家和)など4人の共同設立者とともに設立した。資本金は100万台湾ドルで、スタン・シーと妻が50%の株を持っていた。この会社がエイサーになるのである。ケン・タイは、MiTAC(神通電脳)でインテル製品を扱っていた人物である。

 当初、台湾のマイクロプロセッサ市場は未成熟で、マルチテク・インターナショナルは貿易とコンサルタント業務をしていた。スタン・シーがいうとおり、エイサーは家族以外は何でも売ったのである。

 一方マルチテクは、1979年、台湾企業で初めて社員持ち株制度と配当金制度を実施した。また持ち株は、社外に売ることは禁止されていた。従って株式のオプションとは違う。持ち株制度は社員の優遇策としての意味よりも、社員の給料の天引きによるエイサーの資金調達という意味合いもあったようである。

 マルチテクの企業哲学には、高度な権限委譲システムと極めてユニークな性善説、逆説的思考があった。困難への挑戦、障害の突破、価値の創造がスタン・シーのモットーであり、人と同じことをやりたがらない。スタン・シーは『わたしも……というのはわたしのスタイルではない(Me-Too Is Not My Style)』という本を、1996年に出版している。

 1978年、マルチテクはパン・アジア(全亜電子)のマイコンキットEDU-80の販売代理を行う。1980年には、EDU-80の輸出を開始する。また同じ年に、朱邦復とともに天竜中文電脳を開発したが、これは売れなかった。

 1981年、マイコンキットであるマイクロプロフェッサーIを製造した。これは、ツインヘッド(倫理電脳)のチェン・イチュン(陳義誠)から10万台湾ドルで買った。エイサーは自己の技術で勝負する会社ではないのである。マイクロプロフェッサーIの販売では、EDU-80の販売経験やマニュアル作成技術が効果を上げた。

 この間、マルチテクはテキサス・インスツルメンツの電子部品を輸入して、ビデオゲームメーカー向けに売って大もうけした。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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