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IT業界の開拓者たち

第19回 ラジオシャックチェーンを組織した男

脇英世
2009/3/2

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

チャールズ・タンディ(Charles Tandy)――
タンディ創業者

 最近パソコンを始めた人にとって、タンディやラジオシャックという名前は聞き慣れないかもしれないが、タンディは1970年代後期、アップル、コモドールと並ぶパソコン御三家と呼ばれて有名であった。特にタンディのTRS-80は、一世を風靡したパソコンとして歴史に名を残している。その際、ブランド名として、タンディと呼ばれる場合と、ラジオシャックと呼ばれる場合があったのだが、どうしてそうなったのか、今回はその原因を探ってみよう。

 タンディという会社は、1919年にテキサス州のフォートワースに設立されたヒンクリー・タンディ社という皮革会社に起源を持つ。同社は、ノートン・ヒンクリーとデイブ・タンディという仲の良い2人の青年が、互いの皮革会社を合併させて作った会社である。2人の生命保険金5000ドルを担保に資金を借りたらしい。

 会社設立後は順当に成長を続け、厳しい大恐慌の時代を乗り切り、第二次世界大戦の軍需景気によって地盤を固めた。大戦後には、デイブ・タンディの長男チャールズ・タンディが会社に加わっている。1950年、ヒンクリー・タンディ皮革会社は分裂し、新たにタンディ皮革会社が誕生した。チャールズ・タンディは皮革専門の店を2軒開き、皮革製品のチェーンストア事業を始めている。チャールズ・タンディは、チェーンストア事業展開の名手となった。

 1955年、タンディ皮革会社は、ボストンに本拠地を置くアメリカン毛皮皮革会社に買収された。買収の条件はタンディ皮革会社に1株4ドルで50万株を売ろうというものであった。旧タンディ皮革会社の経営陣は、会社こそ買収された側であったが、次第にアメリカン毛皮皮革会社の経営権を握っていく。1959年、ついに会社の全権を掌握した旧タンディ皮革会社の首脳陣は、社名をジェネラル・アメリカン・インダストリと変更し、チャールズ・タンディを取締役会の会長に据えた。それにとどまらず、1960年には社の本拠地を、タンディの古巣であるテキサス州フォートワースに移し、社名もタンディ社へと戻している。

 さて、物語のもう1つの伏線をなすラジオシャック社は、1921年にボストンの下町の中心であるブラトル通りに生まれた。創業者はオランダ系の家族であるという。当時のラジオシャックは、分かりやすくいえば町のラジオ屋さんであり、主な顧客はアマチュア無線家とエレクトロニクス愛好者であった。ラジオシャックという言葉は、船のブリッジに設置されたラジオシャックと呼ばれる無線装置を格納する木製の箱に起源を持つ。

 ラジオシャックは、1940年に通信販売のカタログを出し始め、自作の好きな米国の人々に電子部品を通信販売した。その後、1947年にハイファイオーディオ分野に参入している。ハイファイとは、ハイ・フィデリティ、つまり原音に忠実に再生を行う能力をいう。要するに音の良いスピーカーや、アンプ、ターンテーブル、カートリッジなどを扱うことになったのである。1962年、ラジオシャックは、ボストンのコモウェルス通り730番地に本社を置き、小売店を9店舗持つうえ、通信販売まで行っていたが、実は破産寸前であった。

 そんな時、チャールズ・タンディがラジオシャックを買収した。1963年のことであった。当時、タンディ皮革会社のチェーンストアは170店舗を擁するまでになっていたが、チャールズ・タンディは皮革の商売だけでやっていくのには限界があると感じていたのである。チャールズ・タンディは、400万ドルの赤字を出していたラジオシャックを2年後には2000万ドルの黒字を出す優良企業に変えた。チェーンストア展開の名手チャールズ・タンディにより、ラジオシャックの小売店チェーンは飛躍的に増加し、10年の間に全米で2000軒になり、現在では7100軒にまで成長している。

 1968年ごろから、チャールズ・タンディは心臓病を患い、減量を医師に勧められていたが、本人はまったくといっていいほど節制しなかった。1日中、葉巻をパカパカ吸い、コーヒーをガブ飲みし、夜になるとバックギャモンに興じ、1晩中ジャックダニエルとドンペリをあおり続けたといわれている。こうした不摂生がたたり、1978年11月にチャールズ・タンディは60歳でこの世を去った。

 1972年、ラジオシャックはEC-100というポケット電卓を発売した。これがタンディのパソコン業界参入の伏線になっている。そして、1977年にTRS-80モデルIというパソコンを売り出した。

 ちなみに、タンディのパソコン業界への参入を強く主張したのは、ジョン・ローチという人物で、チャールズ・タンディ亡き後、その後継者となっている。TRS-80は、灰色と黒のプラモデルのようなパソコンで、キーボードと本体が一体という奇妙な設計であった。CPUにはZ80を搭載し、4KBのROMと4KBのRAMを備え、表示装置としてモノクロのブラウン管を装備していた。初期の外部記憶装置として採用されたのは、カセットテープである。TRS-80の評判は上々で、発売後1カ月の内に1万台を売り切り、3000台という予測を大きく上回った。プラモデルのような質感の外観にもかかわらず、セミプロ級の本格的なソフトウェアを有しているのがものをいったのであろう。さらに、全米にチェーン展開しているラジオシャックの小売店を通じて、サポートを受けられたことも強さの秘密だったに違いない。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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