自分戦略研究所 | 自分戦略研究室 | キャリア実現研究室 | スキル創造研究室 | コミュニティ活動支援室 | エンジニアライフ | ITトレメ | 転職サーチ | 派遣Plus |

IT業界の開拓者たち

第22回 ページメーカーを作った男

脇英世
2009/3/5

第21回1 2次のページ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ポール・ブレイナード(Paul Brainerd)――
アルダス創業者

 ポール・ブレイナードは、アルダス(Aldus)社の創設者で、ページメーカー(PageMaker)というDTPソフトの開発者である。昔はDTP(デスクトップ・パブリッシング)といえばアルダスであり、ページメーカーであった。アルダスはアドビシステムズ(Adobe)に買収されてしまったが、ページメーカーはアドビの製品として残っている。

 ポール・ブレイナードは、1949年オレゴン州の南部に生まれた。森や湖や山に囲まれた風光明媚な地である。明るい日差しの午後、広い牧草地を銀ギツネの家族がゆったりと歩いているような牧歌的な情景が展開される。ポール・ブレイナードは、こうした豊かな自然に恵まれた南オレゴンで少年時代を過ごした。これが後年、環境保護運動にかかわるきっかけとなっている。

 ポール・ブレイナードは、1970年オレゴン大学のビジネス学科を卒業した。続いてジャーナリズム専攻で修士号を修めた。大学院を出た後のポール・ブレイナードは、ミネソタ州のミネソタデイリー紙の編集長を務め、さらにミネアポリスのスタートリビューン紙で、日刊紙のコンピュータ前処理システムの計画と設置を経験し、アテックス(ATEX)社のワシントン州レッドモンド支社で出版社と新聞社用の専用出版システムを経験した。ポール・ブレイナードは新聞、出版、専用出版システムを経験し、DTPソフトの開発に十分な下地を持っていた。

 1983年も押し詰まったある日、アテックスのワシントン州レッドモンド支社の支社長になっていたポール・ブレイナードのもとに、本社から支社閉鎖の通知が来た。希望すればマサチューセッツ州の本社への配置転換も可能であったが、ワシントン州にとどまることにした。アテックス社から5人のプログラマを引き抜き、新会社を設立することにした。プログラマは全員が新会社の共同設立者になった。

 アテックスでのミニコンベース専用出版システムの経験を生かして、パソコン用DTPソフトの開発を新会社における目標とした。このDTPソフトの名前がページメーカーである。

 新会社のため、ポール・ブレイナードは自分の貯金から10万ドルを出した。このため、プログラマたちは普通の半分の給料で働くことに合意した。10万ドルでは半年しか持たなかったが、3カ月たってDTPソフトのページメーカーのプロトタイプができると、ポール・ブレイナードはビジネス・プランを書き、資金集めに出掛けた。

 1984年1月、ポール・ブレイナードはシーボルドに出会った。当時アップルの新型レーザープリンタだったアップルレーザーライター用ソフトのために、シーボルドは密かに働いていたのだった。シーボルドは、ポール・ブレイナードのページメーカーこそ、アップルと自分の探しているものだと知った。

 1984年4月、裁判所で新会社アルダスの法人登記を行う際、ポール・ブレイナードが書いた設立契約書にサインする段になると、全員が唖(あ)然とした。プログラマ1人当たりに1%の株式を割り当て、ポール・ブレイナードが1人で95%の株式を保有するというものだった。さすがに異議が出て、プログラマ1人当たり2%の株式を割り当てることになった。ポール・ブレイナードはケチだという悪口もある。ただこの場合、会社に身銭を切って出資していたのは、ポール・ブレイナードだけであり、これ以上の文句はいいにくかった。アルダスは最初から、ポール・ブレイナードのワンマン会社という色彩が強い。

 アルダスの社名のもとになったのはアルダス・マニティウス(Aldus Manutius)という中世のイタリア人である。アルダス・マニティウスは、1450年にローマ近郊で生まれた。古典ギリシャ語の文法学者で、人文主義者でもあった。1490年代、アルダス・マニティウスはベニスで印刷事業を始めた。この印刷事業はイタリアにギリシャ語やラテン語の古典を安価に普及させる目的に基づいていた。アルダス・マニティウスの印刷所で印刷された本は、洗練された活字、優れたデザインなど、美術的にも大変優れたものであった。ギリシャ語の古典にはアリストテレス、ヘロドトス、ソフォクレス、エウリピデス、ホメロス、へシオドスの著作などがあった。一方、ラテン語の古典にはバージル、ホレーショ、キケロ、プリニウスの著作などがあった。また、アルダス・マニティウスの印刷所で印刷された本には、イルカと錨(いかり)を組み合わせたマークが入っていた。これは人文主義者の標語「フェスティナ・レンテ」であった。アルダス・マニティウスは何度も古典文法に関する著作を世に出したが、皮肉なことにあまり評価されなかった。

 ポール・ブレイナードはシーボルドの紹介で、アップルとアドビに接触した。アドビのポストスクリプトを積んだマッキントッシュ用レーザーライターはそれだけでは何の役にも立たない。アルダスが開発したDTPソフトのページメーカーがあって、初めてDTPシステムが構築され実用になる。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

第21回1 2次のページ


» @IT自分戦略研究所 トップページへ

自分戦略研究所、フォーラム化のお知らせ

@IT自分戦略研究所は2014年2月、@ITのフォーラムになりました。

現在ご覧いただいている記事は、既掲載記事をアーカイブ化したものです。新着記事は、 新しくなったトップページよりご覧ください。

これからも、@IT自分戦略研究所をよろしくお願いいたします。