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IT業界の開拓者たち

第27回 速戦即決で業務を拡大

脇英世
2009/3/16

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

エド・マクラッケン(Edward R.MacCracken)――
元シリコングラフィックス会長兼CEO

 映画『ジュラシックパーク』などで、驚異のCG技術を披露したシリコングラフィックス(SGI)。エド・マクラッケンは同社の会長を務めていた人物だ。

 シリコングラフィックスは、1982年ジム・クラークがスタンフォードの助教授時代にマイク・ハンナらの教え子6人と始めたグラフィックス指向の会社である。

 シリコングラフィックス成功の秘密は、グラフィックス専用のASICによるプロセッサを作ったことにあった。しかし、そのハードウェアによる成功は、シリコングラフィックスを、もともと目指した3次元の対話型グラフィックスソフトウェアの会社としてではなく、グラフィックス用ワークステーションの会社として成長させることになった。

 シリコングラフィックスの技術と理念はジム・クラークが提供したが、経営の実際はエド・マクラッケンが担当したようである。

 エド・マクラッケンは1943年生まれ。1966年にアイオワ州立大学電気工学科を卒業し、1968年、スタンフォード大学で修士号を取得している。ヒューレット・パッカード社に16年間勤めた。

 ヒューレット・パッカード社員の政治好きには定評があるが、それは業界政治だけでなく本物の政治に関しても同様だ。エド・マクラッケンもヒューレット・パッカード社員の政治好きを多少受け継いだようである。彼は後年、クリントン政権の熱心な後援者として登場する。

 エド・マクラッケンは、1984年にシリコングラフィックスに社長兼最高経営責任者として入社した。シリコングラフィックス設立後2年目のことである。この時点まではエド・マクラッケンはまったく目立たない人物であった。

 シリコングラフィックスが製品を出し始めるのは1984年だが、サン・マイクロシステムズは2年先行して1982年からワークステーション製品を出していた。両社ともスタンフォード大学の血を引いているところが面白い。

 先行したサン・マイクロシステムズは、汎用部品を使った低コストの汎用ワークステーションを主力とした。むろん特定分野に偏らない水平展開である。

 出遅れたシリコングラフィックスにとって、水平展開は不可能であり、高性能グラフィックス機能に3次元インターフェイスを付けて提供することになった。つまりシリコングラフィックスの戦略は、付加価値を最大にすることによって、特定市場への垂直展開を狙うものだったといえる。

 こうしてサン・マイクロシステムズとシリコングラフィックスの戦略は、相補的で対照的なものとなった。

 こうした戦略を実現するためのエド・マクラッケンの戦術は次のようなものだった。

  • 先頭を切ること

  • 長期にわたる計画は持たない

  • 短いサイクルで仕事をする

  • 即座にインプリメントし実行する

  • ある水準に達する製品を生産できないときは外注する

  • 研究開発への投資を惜しまない

  • 先進的顧客から学ぶ

 このうち、最も有名なのは「長期にわたる計画は持たない」ことである。つまり、よくいえば速戦即決主義、悪くいえば場当たり主義である。毎年、毎月、業務の拡大に次ぐ拡大を続けていたのだから、石頭ではやっていけなかったのだろう。

 このように戦略だの戦術などと書くと難しそうだが、シリコングラフィックスの企業文化は、毎週金曜日の午後には水鉄砲合戦をやっていたなどという話から、どんな感じだったか分かる。社長のエド・マクラッケンにしてもまだ30代だった。元気のよい若者文化だったのだろう。

 1992年、シリコングラフィックスはRISCチップのMIPS Rx000シリーズで有名なMIPS社を買収した。シリコングラフィックスに対する評価がワークステーションメーカーということに固まり始めた現在なら抵抗がないだろうが、当時はまだグラフィックソフトウェアの会社がハードウェアの会社を買収したという違和感を与えたものである。何というアンバランスかと呆れさせられたものである。

 MIPSのプロセッサは、ACEという戦略構想の下で大きな役割を担うことになっていた。CPUはインテルとMIPS、OSはSCOのUNIXとウィンドウズNTという構想だったが、コンパックの脱落、マイクロソフトのSCOに対する闘争宣言などからACEは簡単に空中分解した。

 それでもMIPSのプロセッサは、ソニーとNECが採用し続けるところとなった。MIPSは買収当時からすぐに売却されるだろうといわれたものだが、比較的長い間持ちこたえた。

 シリコングラフィックスが大衆に認知されたのは、1993年の映画『ジュラシックパーク』による。この映画での恐竜特撮シーンのグラフィックスは素晴らしかった。シリコングラフィックスの技術で作り出された恐竜には、従来望めなかった本物の迫力があった。

 1993年1月、クリントン政権誕生のときのシリコンバレーへの答礼訪問はクリントン当選に力があったアップルやヒューレット・パッカードでなく、シリコングラフィックスであって、世人をあっといわせた。

 もちろんエド・マクラッケンはビル・クリントンを強力に支持していたが、それにしてもクリントン大統領のシリコングラフィックス訪問は驚きであった。

 世界中があらためてシリコングラフィックスを認知することになった。根回しはすごかったのだろう。エド・マクラッケンはクリントン政権の推進するNII(全米情報インフラストラクチャ)顧問会議の議長となった。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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