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IT業界の開拓者たち

第28回 テキサス生まれのGQボブ

脇英世
2009/3/17

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 ロバート・パーマーはテキサス生まれで、1962年テキサス・テク大学の数学科を卒業し、1965年同大学の大学院で科学の修士号を取得している。このテキサス生まれというのは重要なファクターである。

 DECの重役はほとんどニューイングランド出身であり、ロバート・パーマーはどちらかといえば異端児であった。本人もいっているように、異端のロバート・パーマーが頭角を現すには、DEC社内でそれなりの状況変化が必要だった。

 1969年にロバート・パーマーは、モステック・コーポレーションを創設した。1980年ユナイテッド・テクノロジーズ・コーポレーションがモステック・コーポレーションを買収すると、自らユナイテッドに入社し、半導体オペレーション担当副社長となった。その後1985年にDECに入社し、1986年、半導体オペレーション担当副社長となった。1989年には相互接続技術担当副社長、1990年に製造とロジスティック担当副社長となり、さらに、1992年には部品技術担当副社長になった。

 仕立ての良い服を好み、スピード狂であることから、GQボブというあだ名が付いている。ロバート・パーマーと呼ばずボブ・パーマーと呼ぶこともある。

 1995年8月2日、DECはマイクロソフトと、ウィンドウズベースのソリューションと次世代エンタープライズコンピューティングに関して以下のような戦略的提携を発表した。

  • マイクロソフトベースのソリューションに焦点を当てたSIビジネスへのサポート

  • DECは1500人の認定ウィンドウズNT専門家を育成する

  • マイクロソフトはDECのアルファベースの製品を開発する

  • マイクロソフトとDECの間での特許のクロスライセンス

  • マイクロソフトはDECから将来のウィンドウズNT用にクラスタ技術をライセンスする

 これらの提携を行った論理は極めて入り組んで見えるが、底流には現実主義的傾向があった。

 ロバート・パーマーによれば、マイクロソフトがいかに批判されようと、マイクロソフトは勝利する。成長と利益と成功の保証されているマイクロソフトと提携しないのは賢明でない。負け犬には付くべきでない。だから、DECはマイクロソフトと提携する。DECがウィンドウズNTに賭けるのは、32ビットUNIXではDECの勝利はあり得ず、64ビットUNIXにおいてこそDECの勝機があるからだ。ここで鍵を握っているのはDECのアルファチップである。しかしDECは一方において、インテルのCPUもサポートする。それはどこも同じことである。

 特許のクロスライセンスについては、マイクロソフトでウィンドウズNTを開発したディビッド・カトラーはもともとDECにいて、VMSというOSを開発していたため、ウィンドウズNTの設計にはDECのVMSの特許権を侵害する部分があったらしい。このため、マイクロソフトとDECはお互いに特許権の自由な相互使用を許可するクロスライセンス協定に調印した。DECのクラスタ技術をマイクロソフトのウィンドウズNTに統合することは、当時かなり野心的な計画と見なされた。

 1996年、DECはビジネス用のパソコン市場に集中することになる。DECの業績は数年ぶりに上向いた。これに関してはかなり好意的な評価が多かった。雲の切れ間である。しかし顔を出し始めていた太陽は再び雲に隠れていく。

 1996年4月、コンピュータ・アソシエイツ・インターナショナルは、DECと戦略的に提携し、DECのポリセンター管理製品を引き取った。分かりにくいが人員整理の一環で、いわゆるリストラである。

 また同じ月、DECとオラクルはデータベースに関して戦略的に提携した。DECはマイクロソフトとも提携しており、オラクルのデータベース製品は、マイクロソフトのバックオフィス製品と競合する。

 1996年5月、マイクロソフトとタンデムは戦略的提携を発表し、ウィンドウズNTの次のステップはタンデムのハードディスクとソフトウェアクラスタリング技術によると発表した。前述のように1995年にマイクロソフトとDECは、DECのクラスタリング技術をウィンドウズNTに導入すると発表している。

 この件に関してサンディ・テーラーという辛らつなアナリストは強烈なことをいっている。「タンデムはディジタルに続いてマイクロソフトへの臓器提供者リストに名を連ねた」。商売とはいえ、よくもこんなことを考えつくものだと感心する。

 1996年7月、ロバート・パーマーは、DEC全従業員6万900人中、7000人の解雇を発表した。4億7500万ドルかけたリストラの一環である。こうしたことの要因は、依然としてパソコンビジネスとヨーロッパ市場が弱いためだといわれていた。

 DECはメインフレームの巨人IBMと戦ってミニコンピュータというジャンルを作り出した。はじめは安価なボードコンピュータに近い形から出発したDECのミニコンピュータも次第に巨大化していった。DECの安価なミニコンピュータの地位を受け継いだのはサン・マイクロシステムズやシリコングラフィックスであった。これらの企業の製品もすでに巨大化・高級化の道を歩んでいる。

 メインフレームの巨人IBMが生き残れたのは、RS/6000のようなワークステーションを確保できたからだろう。DECと同時代のヒューレット・パッカードが生き残っているのはワークステーションによるというよりは、プリンタ市場という巨大なマーケットを押さえ、収入を確保しているからだろう。

 DECは1994年に、ディジタルハイノートというヒット製品を出した。またアルタビスタのように高い評価を受けるサービスもあるが、これらはいずれも孤立した点で、線や面の支配にはまだ一歩であった。確固とした方針への模索という時期が続くことになった。

 ロバート・パーマーはDEC最後のCEOとなった。DECという会社は1998年に、コンパックに吸収合併され姿を消してしまったからである。エッカード・ファイファー率いるコンパックの成功の秘策は、薄利多売の低価格化路線であったが、この方策は次第に通用しなくなり、コンパックを苦しめることになった。むしろ利幅の大きなサーバの方がコンパックにとっては魅力のある製品になった。サーバを売るとなれば、必要なのはセールス部隊やサポート部隊であるが、コンパックは1997年当時、全世界で1万7000人ほどの従業員しかいなかった。ここから数万人のサポート部隊を捻出(ねんしゅつ)することは困難である。せいぜい数千人がいいところで、これでは圧倒的に人員が足りない。そこで買収戦略が発動される。1997年8月、コンパックは30億ドルでタンデムを買収した。タンデムはフォールト・トレラント・コンピュータで有名であった。次にコンパックは、1998年1月、96億ドルでDECを買収した。全世界で2万5000人いるDECのサービスとサポート部隊の獲得が買収のポイントであった。コンパックによるDECの吸収合併は1998年7月に終了した。DECはその姿を消し、ロバート・パーマーはDEC最後のCEOとなった。新生コンパックの経営陣には迎えられなかった。

 エッカード・ファイファーは意気軒昂たるもので、2000年までに世界第3位のコンピュータメーカーになると宣言した。皮肉なもので、いまはもうファイファーはいない。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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