第28回 テキサス生まれのGQボブ
脇英世
2009/3/17
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ロバート・パーマー(Robert Palmer)――
元DEC会長兼CEO
ディジタルイクイップメント(DEC)は、ミニコンピュータにより1960年代から急激な成長を遂げてきた。そのDEC最後の会長兼CEOを務めたのがロバート・パーマーである。
10年以上前、ボストンに遊びに行ったとき、DECのコンピュータ博物館へ行ってみようと思った。どこにあるのかはいいかげんにしか覚えておらず、タバコと同じ名前だとしか記憶していなかった。
地図を見ると「セイラム」という地名が見つかったのですぐ北へ向かった。ところが何かの拍子に「セイラム」でなくて「マールボロ」だったことに気が付いて、慌てて西へ進路を変更した。マールボロに着くと、DECのコンピュータ博物館はボストン市内に移っていて、残骸のようなものが少し見られただけだった。
1957年、MIT出身者のケン・オルセンとハーラン・アンダーソンによってDECが設立された。DECの最初の社屋はメーナードという所の羊毛の倉庫跡である。この建物がDECの企業文化に与えた影響は小さくないといわれている。
IBMの大型コンピュータが圧倒的な強さを誇る中、DECは対話型の安いミニコンピュータを狙ったのである。DECのこの考え方は大学や研究機関の研究者に支持され、DECは次々にミニコンピュータを出荷することになる。
1960年のPDP-1を皮切りに、1963年にはPDP-5、1965年にはPDP-8、1970年にはPDP-11が出荷され、DECは破竹の快進撃を続けることになる。20年間の平均成長率が30%というからすごいものである。
DECは1974年にPDP-11をLANやWANに接続するためネットワーク事業に参入した。それはDECネットとして結実した。このDECネットのアーキテクチャと技術は、大型コンピュータの介在なしにミニコンピュータ同士をつなぐものとして、非常に優れたものであった。
1977年、DECはPDPシリーズの後継としてVAX-11/780を出荷する。1984年から1988年がVAXシリーズの最盛期であった。しかし、ミニコンピュータ界のIBMと呼ばれるようになったDECは、パソコンの取り込みに失敗した。
DECは1982年にレインボーを、1985年にVAXmateを出したが、パソコンをあくまで自社のミニコンピュータの端末と考え、パソコンそのもので勝負する気がなかった。最初のレインボーのつまずきで、ケン・オルセンはパソコンから目をそむけたままで終わったといわれている。
新しいパソコンの時代に対応できなかったDECは、1990年から1992年にかけて赤字を出した。このため創業者ケン・オルセンはDECを追われることになる。
1992年10月、ケン・オルセンの後をロバート・パーマーが社長兼最高経営責任者(CEO)として引き継いだ。1995年3月からは会長職を兼ねている。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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