第30回 牛をモチーフとした男
脇英世
2009/3/19
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
テッド・ウェイト(Ted Waitt)――
ゲートウェイ会長兼CEO
テッド・ウェイトは35歳(1998年現在)、ゲートウェイの会長兼CEO(最高経営責任者)である。正式な名前はセオドア・W・ウェイトである。1963年にアイオワ州のスーシティで生まれた。4代続いた中西部の牧畜業者の5代目である。彼の経営手法は、父の冒険者的な牧畜業のやり方に大きく影響を受けたといわれている。
テッド・ウェイトの生まれ育ったスーシティは奇妙な町で、アイオワ州スーシティ、ネブラスカ州サウススーシティ、サウスダコタ州ノーススーシティの3州に属する3つの町からなる。いくつもの州の境にある町であるが、交通の要地にあるというより、ずいぶん辺ぴな所にあるらしい。どれほど辺ぴかというと、1995年になって初めてノーススーシティに交通信号機がついたとあるから、何となく様子が想像できそうである。一度行って見てきたいものだ。
テッド・ウェイトは少年時代のことや家族のことをあまり語りたがらない。少年時代については15〜16歳のころ、夏、牧場の芝を刈ったり、病院で皿を洗ったりして小遣いをため、ビールを飲んだりしたことぐらいが語られているだけだ。1985年、22歳のときにテッド・ウェイトはアイオワ州立大学を3年生でドロップアウトした。専攻は何であったかはまったく語られない。勉強は嫌いだったようだ。
1985年8月、テッド・ウェイトは友人のマイク・ハモンドを誘ってコンピュータ会社をつくろうと決心する。その前にコンピュータ業界に勤めた経験があると語っているが、どの程度のものかはっきりしない。
1985年9月5日、テッド・ウェイトは祖父の農場の片隅にあった2階建ての小屋にTIPCという会社を設立した。TIPCはTIとPCと分けると理解しやすい。TI(テキサス・インスツルメンツ)のパソコンを持っている人に周辺機器やソフトウェアを通信販売で売る会社だった。TIのパソコンはIBM PC非互換であったから、ユーザーは消耗品や周辺機器の購入に不安を感じていたのである。
テッド・ウェイトの祖母モモが預金を担保に入れて信用保証をし、銀行から1万ドルの資金を借り出した。有名な話である。ただテッド・ウェイトは借金が嫌いだったらしく、程なくして全額返済してしまったという。会社の運転資金は顧客の払う入会金の20ドルに依存していたところが大きかったといわれる。
TIPCは最初、社員が2名であり、テッド・ウェイトがマーケティングを担当し、マイク・ハモンドが技術を担当していた。会社といっても薄い髪の毛を後ろで束ねてポニーテールにしたテッド・ウェイトがキャメルライトをすぱすぱ吸い、ダイエットコークをがぶ飲みするといった雰囲気であったらしい。会社にはテッド・ウェイトとマイク・ハモンドのほかにジェイクとバンキーという2匹の犬がいた。これ以外にテッド・ウェイトより9歳年長の兄ノーマン・ウェイトがいた。ノーマン・ウェイトは会社設立後、半年ほどして財政担当としてテッド・ウェイトに引っ張り出された。ノーマン・ウェイトは株式の50%を要求し、テッドとノーマンの兄弟が会社の株式を折半した。マイク・ハモンドには株式は与えられなかった。
TIPCは通信販売で中間マージンを排除できたので、安売りを特徴としてライバルより最低10%は安く価格設定していた。このため事業は予想外にうまくいき、最初の10カ月で10万ドルを超える売り上げを記録した。
1986年4月2日、TIPCはスーシティの建築後100年以上になるライブストックエクスチェンジビルに移転した。大きなゴキブリがたくさんいる古いビルであったらしい。高校生のアルバイトを雇ったりして人件費を極端に切り詰めていたようだ。このころの様子はゲートウェイのホームページで読むことができる(*1)。ずいぶん怪しげな会社だったらしい。それでも営業できるのが通信販売会社の強みだろう。
(*1)ゲートウェイのホームページで、同社の歴史を紹介しているページがあるが、1986年のところにはビルとゴキブリの写真が載っていて、ユーモラスである。 |
1987年、TIはIBM PC非互換路線を捨て、IBM PC互換路線を採用した。TIのパソコンを持っているユーザーは、3500ドル出せばIBM PC互換パソコンを手に入れることができるようになったのである。TIの独自路線の、事実上の敗北である。これによってテッド・ウェイトのTIPCは根本的な路線変更を迫られることになった。テッド・ウェイトは自分自身でIBM互換のパソコンを作ることになった。TIPCは1995ドルという安値でIBM PC互換パソコンを提供した。
このときから、テッド・ウェイトのTIPCはゲートウェイ2000を名乗るようになった。ゲートウェイ2000という社名はテッド・ウェイトが酒場で酒を飲んでいたとき、「ゲートウェイ」という名前が気に入っていると一緒に飲んでいる相手に話すと、「ゲートウェイ」に「2000」を付けるともっと語呂がよくなるとアドバイスされてできたといわれている。このゲートウェイ2000という社名は10年間続くが、1998年4月23日から2000を落としてゲートウェイに変更されることになる。
ゲートウェイ2000は通信販売の会社であり、通信販売にとって大切なことは1にも2にも低価格であることだ。通信販売では中間マージンを省ける。さらに中西部のスーシティには安い労働力が潤沢にあり人件費が節約できた。またゲートウェイ2000はそれまで不可能と思われていたパソコンのオーダーメイドを実現した。1990年1月ゲートウェイ2000はサウスダコタ州ノーススーシティに移転する。サウスダコタ州には所得税がないのである。同じようなことをゲートウェイ2000は1997年にもやっている。この年ゲートウェイ2000はネバタ州リノに工場を作ったが、これは固定資産税が安いためであった。執拗なまでに出費の削減が追求されている。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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