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IT業界の開拓者たち

第31回 アーケードゲームマシンの先駆者

脇英世
2009/3/23

第30回1 2次のページ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell)――
アタリ創業者

 ノーラン・ブッシュネルは1943年、ユタ州クリアフィールドのモルモン教徒の家庭に生まれた。父親はセメントコントラクタであった。煉瓦(れんが)職人だったという本もあるが、少し違うようだ。父親はノーラン・ブッシュネルが15歳のときに死んだ。ノーラン・ブッシュネルはラジオや洗濯機を修理するのが好きな子どもだったそうだ。

 1962年、ノーラン・ブッシュネルはユタ大学の工学部に入学した。キャンパスのコンピュータでMITのスティーブ・ラッセルが書いたスペースウォー(宇宙戦争)というゲームに出合った。ゲームというよりコンピュータシミュレーションである。

 成績が良かったという報告例はない。夏休みにはラグーン・アミューズメント・パーク(遊園地)で働いていた。初めは夏だけだったが、後にはいつも遊園地で働いたらしい。給料がよかったうえに、コミッションもはずんでくれた。おまけに昇格すらさせてくれた。卒業後には、仕事としてディズニーランドでのリサーチエンジニアになることを希望していた。

 しかし、ディズニーランドでは採用されず、1969年アンペックスに入社した。すでに学生結婚していたノーラン・ブッシュネルは、シリコンバレーのサンタクララに移り住んだ。

 29歳のノーラン・ブッシュネルはゲームに熱中し、1972年、2番目の娘ブリッタの部屋を取り上げてビデオゲームの設計にかかった。彼が狙ったのはスペースウォーをアーケードゲームマシンに搭載することであった。ノーラン・ブッシュネルはスペースウォーだけを実行できるコンピュータをテレビターミナルにつなぐことを考えた。

 最初の製品コンピュータスペースは、スペースウォーをかなり簡略化したにもかかわらず、アーケードゲームとしては複雑すぎて失敗だった。

 そこでノーラン・ブッシュネルは、アラン・アルコーンという若いエンジニアに、2つのラケットの間でボールが跳ねるだけの、できるだけ簡単なゲームを作るように指示した。アラン・アルコーンはアル・アルコーンとも呼ばれ、アタリの従業員番号1番であった。このゲームはポングと呼ばれた。ノーラン・ブッシュネルがポングのゲームマシンに付け加えた特徴は硬貨投入式にしたことである。

 1972年11月、最初のポングゲームがカリフォルニア州サニーベールのアンディ・キャップのバーであるアンディ・キャップス・タバンに設置された。いまのアーケードゲームの原型で、情報提供用のキオスクに似た形をしている。

 ポング設置後、すぐに「故障だ」とバーから電話がかかってきた。ノーラン・ブッシュネルが出向くと故障ではなく、硬貨が入り過ぎ詰まって動かなくなっているだけだった。

 ノーラン・ブッシュネルは、アンペックスを辞めて、テッド・ダニーと250ドルずつ出し合って、アタリを設立した。アタリの設立は1972年であることは各種の文献が一致するが、何月の設立かははっきりしない。アタリは日本語の囲碁の「アタリ」からきている(*1)。ポングのアーケードマシンは順調に売れ続け、アタリは成功した。

*1)ノーラン・ブッシュネルが強力な囲碁プレーヤーかどうかは不明だが、碁盤を前にして碁石を持っている写真がある。

 アタリの企業文化は1970年代の米国を象徴するロックとマリファナに代表されるヒッピー文化だった。会社の中ではロックミュージックが1日中ガンガン鳴っていたし、ブレーンストーミングはビールとマリファナ漬けで行っていた。会社の中にホットタブというお風呂があった。風呂としても使ったが少し意味が違う。時代はエイズ登場以前の性解放の時代だった。すべてにノリのよい非常に開放的な会社だったのである。当時、西海岸の会社はほとんど同じようなものだったらしい。

 1974年にアタリは破産しかけたが、アタリのエンジニアのハロルド・リーが家庭のテレビで楽しめるホームポングを提案した。1975年にはシアーズがまずホームポングを15万台注文し、これがもとでベンチャーキャピタルが融資を再開し、アタリの危機は救われた。この年、ホームポングはシアーズで一番売れた商品となった。

 アタリの成功を見て多くの会社がビデオゲーム市場に参入した。競争が激化したため、1976年、アタリはワーナー・コミュニケーションズに2800万ドル(約36億円)で身売りした。ノーラン・ブッシュネルはそのうち1500万ドルをもらった。ノーラン・ブッシュネルはその後も2年間、会長にとどまった。

 アタリの従業員番号40番の社員は、スティーブ・ジョブズという若いヒッピー青年であった。パソコンの開発をアタリに提案したが一蹴されたため、スティーブ・ウォズニアックと2人でアップルというパソコンの開発を始めた。アタリにはほかにアラン・ケイやブレンダ・ローレルのような超大物もいたことがある。不思議な会社である。

 1977年、アタリはチャック・E・チーズの最初の店舗を開いた。この奇妙な名前は動き回る動物ロボットとピザ屋とアーケードゲームセンターを合わせたものなのである。ノーラン・ブッシュネルはこれをピザ・タイム・シアターと名付けた。エンターテインメントレストランとも説明しているが、この方が分かりやすいだろう。

 一方、アタリはノーマン・ブッシュネルの指示でVCS2600(Video Computer System)を出す。VCS2600は後にアタリ2600と呼ばれるようになる。設計者はジェイ・マイナーである。彼は後にアミーガを設計する。アタリ2600の売れ行きはぱっとせず、ワーナー・コミュニケーションズから派遣されてきた社長のスティーブ・ロスと会長のノーラン・ブッシュネルの対立が激化する。実はアタリ2600が売れ出すのは2人が辞めた1978年後半になってからで、売れ始めると驚異的に売れた。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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