第34回 インテルの新しい帝王
脇英世
2009/3/26
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
クレイグ・バレット(Craig Barrett)――
インテル社長兼CEO
インテルといえば、極めて変わった表題の本(『Only the Paranoid Survive:偏執狂だけが生き残る』)を書いた会長のアンドリュー・グローブが有名である。この表題には日本のインテル関係者も困り果てていたようである。日本語訳では原題どおりでなく『インテル戦略転換』(佐々木かをり訳、七賢出版)になった。
ティム・ジャクソンの『インサイドインテル』(渡辺了介・弓削徹共訳、翔泳社) という大変面白い本を読むと、インテルは独裁権力者アンドリュー・グローブの君臨する秘密結社のような印象さえ受ける。必ずしもすべてが正しいわけではないが、インテルの体質のある一面を物語っている。
いま、インテル支配の実権は次の帝王クレイグ・バレットに移りつつある。この傾向は、アンドリュー・グローブが前立腺ガンを患ったために加速されつつあるようだ。ただし、アンドリュー・グローブは、極めて健康で日常業務には何の差し障りもないと言明している。
インテルの新しい帝王クレイグ・バレットはどんな人物だろうか。
パソコン界の大物の多くはほとんど経歴不明である。例えばアンドリュー・グローブについては、ハンガリーで生まれたこととハンガリー動乱で祖国を捨てて米国へ亡命したことぐらいは知られている。また、ユダヤ系であることは本人も認めているが、ハンガリーでの生活や家族のことは何も分からない。ハンガリー動乱の際にソ連軍の戦車に火炎ビンを投げたという伝説もあるが、本当に反体制活動家であったかどうかについては、口を濁している。むしろ体制的だったという話もあって、つまり何も分からない。多少うさんくさいところがある。
ところがクレイグ・バレットは対照的に、分かりすぎるほど分かる。
クレイグ・バレットは1939年8月29日、カリフォルニア州サンフランシスコの南40キロのサンカルロスに生まれた。父親はシェル石油に勤める化学者であった。若いころのクレイグ・バレットは森林警備隊に勤めたかったらしいが、奨学金をもらってスタンフォード大学の物質工学科で冶金学を学ぶことになった。これから後のクレイグ・バレットの学歴、経歴は極めて順調である。
クレイグ・バレットは1961年にスタンフォード大学の物質工学科から学士号を授与された。続いて1963年、スタンフォード大学の物質工学科から修士号を授与された。1964年には、スタンフォード大学の物質工学科からPh.Dの学位を授与された。
1964年から1965年まで、英国のNPL(国立物理研究所)にNATOポスト・ドクター・フェローとして滞在した。1972年には、デンマーク技術大学にフルブライト・フェローとして滞在する。この間、スタンフォード大学の物質工学科で教鞭を執り、1974年35歳のときには助教授に昇進している。
ただ、このころには、クレイグ・バレットは学問の世界での出世をあきらめていたようだ。後年の経歴を見ると分かるのだが、大学の教員にはあまり向かなかったようだ。
1974年インテルの友人から学生の推薦依頼があったとき、クレイグ・バレットはいったという。「学生はいないよ。でも仕事に飽きた助教授はどう?」
こうして、クレイグ・バレットはインテルに技術開発担当マネージャとして入社した。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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