第38回 パケット交換ネットワークの父
脇英世
2009/4/2
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ポール・バラン(Paul Baran)――
パケット交換ネットワーク提唱者
どんな通信ネットワークの教科書にも、パケット交換ネットワークはポール・バランが提唱したと書いてある。もっとも、パケット交換ネットワークという言葉は、ポール・バランでなくドナルド・デービスが提唱したものである。
パケット交換ネットワークに関するポール・バランの「分散通信について」という11本のレポートは次のように始まる。
「敵の(核)攻撃のあとでも数百の通信基地が互いに交信できるような通信ネットワークの合成を考えよう」
冷戦のさなか、米空軍は旧ソビエト連邦との熱核戦争を想定していた。ソビエト連邦の核ミサイルによって米国本土に点在する基地が攻撃されても、米国はソビエト連邦を葬り去るまで核戦争を継続しなければならない。その場合大切なことは、命令・通信系統の確保である。核攻撃によってネットワークが寸断されても、命令・通信系統を確保するにはどうしたらよいか。米空軍はシンクタンクのランド社に、こうした軍事研究を委託した。
これを受けたランドで、ポール・バランがこの間題の研究に当たった。ポール・バランの回答は比較的明快である。通信ネットワークには集中型、非集中型、分散型がある。核攻撃に対する堅牢性を保証するには集中型や非集中型では駄目で、分散型がよい。分散型ネットワークで自律的に経路制御して目的地に到達するパケットを用いた通信方式が、パケット交換ネットワークと呼ばれるものである。この思想を実現したものが、インターネットの基幹を成すARPANETである。
ポール・バランのこのパケット交換ネットワークに関するレポートは非常に有名でありながら、長い間、一般には読むことができなかった。軍事機密の厚いベールに包まれた幻のレポートだったのだ。ARPANETを構築した国防総省の先進研究計画局(ARPA)の情報処理技術部(IPTO)、第4代部長のローレンス・G・ロバーツは次のように書いている。
「1965年の論文を出した後、ドナルド・デービスは1964年8月に書かれたポール・バランの『分散通信について』というランド社の内部レポートのコピーを渡された。(中略)ランド社によって書かれたレポートは全部で11本あったが、そのうち2本は軍事機密指定で、不幸なことに残りのレポートも非常にわずかしか出版されていなかった」
このような状況であるから、ポール・バランの論文は非常に有名でも、実際に読めた人は極めてまれだったのだ。軍関係の研究者でも、なかなか読めるものでなかったことは、この記述からも明らかである。ポール・バランはパケット交換ネットワークの父といわれながら、その原論文を読める人は限られていた。これは不幸なことである。
ところが、1996年秋から、ランドはインターネットで「分散通信について」という11本のレポートをすべて公開した。誰でも無料でポール・バランの原論文を読めるようになったわけで、これは極めて画期的で素晴らしいことである。しかし軍事機密指定によって失われた33年間の空白の期間はあまりに惜しい。
ポール・バランは1926年ポーランドに生まれた。1928年バラン一家は米国のボストンに移民してきた。一家はボストンからさらにフィラデルフィアに移った。彼の父は小さな食料品店を経営していた。幼いポール・バランは父の手助けをして、食料品の配達をした。高校を卒業すると、バランは1945年フィラデルフィアのドレクセル工科大学の電気工学科に入学し、1949年卒業した。
ポール・バランは1949年にドレクセル大学電気工学科を卒業した。この大学は1891年に金融家のアンソニー・J・ドレクセルが設立したもので、もともとはドレクセル芸術科学産業大学と呼ばれていた。1936年にドレクセル工科大学と改称しているので、正確にはドレクセル工科大学電気工学科卒業ということになるだろう。1969年に、現在の総合大学としてのドレクセル大学になった。
ドレクセル大学は、フィラデルフィアの大学街の中にある。ポール・バランはフィラデルフィアが好きらしい。ボストン生まれだがフィラデルフィアで活躍したベンジャミン・フランクリンを尊敬しているという。現在の彼の写真は、なんとなくベンジャミン・フランクリンに似ている。
大学を卒業した1949年、バランはエッカート・モークレー社に入社した。世界初の商用コンピュータ会社であったが、バランの仕事は部品の寿命決定であった。当時バランはコンピュータには何の興味も持っておらず、ただ手近なフィラデルフィアにある会社という理由で入社したらしい。バランは会社の将来に疑念を持って7カ月後、エッカート・モークレー社を去った。
次に1950年からレイモンド・ローゼン・エンジニアリング・プロダクツ社に移った。もともとはテレビ受像機の車載無線機を扱う販売会社だった。今回もドレクセル工科大学のすぐそばで、結構安直な職探しだったようだ。
ひょんなきっかけで会社は変身し、無線を使ったテレメトリ技術や遠隔操縦技術を持つようになった。入社したバランは最初、航空機の飛行を記録する磁気テープ装置を手掛けた。この装置の最初の客はケープ・カナベラルのロケット打ち上げ場であった。バランの装置はロケットの飛行を記録するテレメトリ・システムに使われた。米空軍の巡航ミサイルであるマタドール用であった。
1954年から55年、バランはテレメトリ・システム分野での実績を生かし、半ば独立、フィールド・エンジニアになった。このころ、将来の妻となるカリフォルニア出身のエブリンに出会い、カリフォルニア移住を要望された。
1955年、ヒューズ航空機地上システム部門に移った。カリフォルニア移住のためである。そこのシステム・グループでSAGEシステムの小型版に当たる半自動地上警戒装置の開発に従事した。続いて海軍のNTDS(海軍戦術データ・システム)の開発に従事する。
ヒューズに入ったとき、実はバランはレーダーのこともトランジスタのことも知らなかった。そこで1955年、バランはUCLAの二部に入って勉強をやり直すことになった。
1955年から1959年までバランは固体燃料のミニットマン・ミサイルの開発を担当した。受け持ちは、地上システムの抗堪性解析(こうたんせい:軍事施設などが敵の攻撃に備えてその機能を維持する能力)であった。ミニットマンが敵から攻撃を受けた場合、どのくらい生き残れるかの研究である。ミニットマンの指揮管制システムの研究はMITのウォーレン・マッカロ教授が指揮を執っていたようだ。バランの関心は次第に指揮統制システムへと移っていく。
ヒューズ航空機地上システム部門も巨大化してくると、次第に官僚化してきて居心地が悪くなった。そこでバランは1959年ランド社に入社した。もっと小さな組織で働きたかったのである。バランは数学部門のコンピュータ科学部に配属された。
1961年12月、ソビエト連邦がキューバに核弾頭搭載可能なミサイルを配備したことによりキューバ危機が起きた。ケネディ大統領の命令により、米海軍はキューバを海上封鎖し、全世界に散らばっていた米空軍のB47は、核爆弾を搭載してソビエト連邦との核戦争開始命令を待った。このときはかろうじて核戦争は回避されたが、米空軍は「将来の核戦争は必至である」と判断し、ランドに軍事研究を委託した。ここからポール・バランのパケット交換ネットワークの研究が始まるのである。
ポール・バランは当時、米国の電気通信を独占支配していたAT&Tのアナログ方式長距離電話回線を分析し、ソビエトからの核攻撃には非常に脆弱なものであると評価した。彼は、将来の通信回線はすべてデジタル方式でなければならないと考えた。ポール・バランの野心的なところは当時の主流であったアナログ方式ではなく、デジタル方式の通信方法を考え出したことである。
ネットワークの抗堪性については紆余曲折の後、次のような思想に到達した。
通信ネットワークは分散型が良い。分散型であれば、ネットワークの一部が爆撃などによって破壊されたとしても、ネットワーク全体は生き残る。ある点からある点へのルートはいくらでもあり、迂回(うかい)路を取ることも可能である。
またある点からある点へデータを送る場合、初めから経路を決めておくのではなく、状況に応じて経路が選択できるようにしておけばよい。データはパケットという単位に細かく分割して送り出し、目的地に着いたとき、再構成すればよい。
データには音声データやコンピュータ・データも含まれる。問題になりそうなのは音声データで、これは途切れては困る。そういうことが可能だろうか。バランの分析によれば、これは十分に可能であった。またデータは、いろいろなルートをとって伝達されるので、もしある経路に電線をつないで通信の傍受を図ったとしても、情報の全体は知ることができない。これは軍用として重要な秘匿性の高い通信方式であるということにもなった。
経路制御については、ポール・バランはホット・ポテト経路制御やダイナミック経路制御を考え出した。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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