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IT業界の開拓者たち

第40回 インターネットの父

脇英世
2009/4/6

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ビントン・サーフ(Vinton Cerf)――
TCP/IPプロトコル開発者

 WWWのサーチエンジンを利用して、ビントン・サーフについて検索すれば分かることだが、ビントン・サーフに関連したWebサイトは何件でもピックアップすることができる。しかし、いくら調べてみても、ビントン・サーフに関する詳細な経歴をなかなか入手できないことには閉口してしまう。功なり名を遂げてからのデータはうんざりするほどある。講演のたぐいや随筆的なもの、果ては詩集まである。「アルパネット(ARPANET)へのレクイエム」「ローゼンクランツとイーサネット」「始まりの前の夜だった」などという詩だ。

 しかし若いころのデータ、つまりどこで生まれてどこの大学を出たというような基本的な事実はインターネットでは見つけにくい。ビントン・サーフが自分の前半生について語っているのは、1974年のIEEEの論文誌に載った著者紹介だけである。これにほかの情報を総合して組み上げていくと次のようになる。

 ビントン・サーフは1943年、コネティカット州のニューヘブンに生まれた。1965年、スタンフォード大学の数学科を卒業。1965〜1967年はロサンゼルスのIBMで働いたが、学業に復帰したくなり、UCLAの大学院に入学する(*1)。

*1)1965年以降のビントン・サーフの活動については、スミソ二アン・インスティチュートのオラルビデオヒストリーの中でインタビューに答えて本人が詳しく語っている。インターネットで検索すれば、簡単に見つけられるだろう。

 UCLAではもともと、マルチプロセッサのハードウェアとソフトウェアを研究していた。当時、国防総省の国防先進研究計画局がARPANETというパケット交換網に関して提案を募った。UCLAもこれに応募し、ARPANETのネットワーク計測センターを設置することになり、ビントン・サーフはネットワーク計測センターで働くことになった。

 当時、ARPANETの実際の構築に当たっていたのは大学院の学生たちであったが、彼らには知識も経験もなかった。そこで彼らはRFC(Request for Comment)という方法を採用し始めた。現在のRFCは半分学術的な体裁すら持っているが、当時はそうでもなかった。RFCは文字どおり意見を募る程度のものだったのである。

 1995年、ビントン・サーフはその偉大な功績を称えられて、ITU(国際通信連合)からメダルを授与される。そのときのビントン・サーフの紹介には、1969年8月のRFC13に始まり39編もRFCを書いたとして、それが偉大な業績であると紹介されている。

 インターネットやCD-ROM化された資料を総動員して調べてみると、確かに初期の分ではRFC13、RFC18、RFC20、RFC21、RFC22、RFC63などにビントン・サーフの名を見ることができる。このうち、RFC18やRFC21などは今日でも残っていて読める。

 例えば、RFC18の内容はこうだ。

 「1969年9月、UCLA ビントン・サーフ発信……ホスト間の制御リンクにはリンク1を、IMP間のリンクにはリンク0を使うべきである。これによってホスト間の通信が可能になり、IMP間の通信の干渉による遅延を減少できる」

 これで全文である。このRFCは単なるメモで、現在われわれがRFCから受ける半分学術的な体裁を持つRFCではない。今日に伝わらなかった初期のRFCはもっと簡単なものであったのではないかと想像される。

 だから初期のRFCをあまりに過大視するのは問題だろう。

 後期のRFCも探し出して読んでみたが、それほど内容のあるものではないように思う。RFC968の内容にいたっては、彼の「始まりの前の夜だった」という1ページ半ほどの詩となっている。だからRFCが39編あるといっても業績的には多少割り引いた方がいいだろう。

 1969年、ビントン・サーフはUCLAの大学院のコンピュータ科学科で修士号を取得し、引き続いて博士課程に進んだ。

 1969年9月1日までにBBNがUCLAにIMPというパケット交換機を納入し、ARPANETすなわちインターネットの基幹ネットワークの一翼を担うことになった。IMPを作ったBBNにはロバート・カーンが勤めていた。

 ロバート・カーンは1938年、ニューヨークのブルックリンに生まれた。1960年、ニューヨーク市立大学を卒業した後、ニュージャージーのベル研究所に入所。同時にプリンストン大学の大学院にいたらしく1962年に修士号、1964年にPh.Dを取得した。1964年から1966年は、MITの電気工学科の助教授を務めた。1966年から1972年、ロバート・カーンはBBN社の上級研究員となった。ロバート・カーンがIMPの大部分を設計したといわれる。

 UCLAにIMPとともにやってきたロバート・カーンは、ネットワーク計測センターにいたビントン・サーフにIMPのプログラミングを頼み、2人は徹夜でテストを繰り返した。ロバート・カーンが予測を立て、ビントン・サーフがプログラミングするというスタイルだったらしい。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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