第41回 LANの歴史に残る人
脇英世
2009/4/7
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ロバート・メトカーフ(Robert Metcalfe)――
イーサネット開発者
LAN技術の発展の歴史を語るうえで、イーサネットの発明は避けて通れない。その発明者の1人が、ロバート・メトカーフ(*)である。ゼロックス・パロアルト研究所(PARC)で若くして成功を収めた彼に、その後訪れた悲運とは何だろう。そして彼の意外な転職について見てみよう。
(*)原著では「Metcalfe」を「メトカルフェ」と表記していたが、@ITの表記例に従い、本記事ではメトカーフと記述する |
ロバート・メトカーフと書くと、思い出すことがある。メトカーフに会ったことがある人から、メトカーフではない。「メトカフェ」だとしかられたのである。子音を強く発音しないという精神からいえば、そうには違いないが、発音はしているし、普通はそう書くからここでも勘弁してもらいたい。
昔、メトカーフという人物を知っているのは、LANの職人的な技術者に限られていた。昔というのは1980年代の前半のことであって、その当時のLANのネットワーク屋さんというのは、OSI(開放型システム間相互接続)やIEEE(アイ・トリプル・イー:米国電気電子技術者協会)、MAP(マニュファクチャリング・オートメーション・プロトコル)というものに傾斜しており、極めて前衛的な少数の専門家集団だった。当時、シリコンバレーの小さな会社を訪ねる視察旅行をよくしたものである。そのころの会社はいまではほとんどすべて姿を消してしまい、名前すら思い出せないものが多い。日記でもつけておくのだったと後悔している。
いま、ロバート・メトカーフという人物を知っている人はいるだろうか。IEEEの802委員会で定められたIEEE802.3というCSMA/CD(搬送波感知多重アクセス/衝突検出)方式。商標ではイーサネット、別名では10BASE5(テン・ベース・ファイブ)という名前で知られている方式の発明者の1人がメトカーフである。10BASE5とは、伝送速度10Mbps、ベースバンド伝送、500メートルおきにリピータ(中継器)を必要とするのでこの名がある。太い黄色の同軸ケーブルで有名である。メトカーフは既に歴史に名を残すことは確定しているが、不幸な人でもある。
メトカーフは1946年ブルックリンのノルウェー人居住区に生まれた。当時ニューヨークの海岸地帯はノルウェー人が住んでいて、船乗りや漁師をしていた。母親はノルウェー人であって、父親はカソリック教徒のアイルランド人であった。当時、旧教徒と新教徒が結婚することは大変なことで、一家はロング・アイランドに引っ越した。父親は飛行機会社の職工で、母親は女性ながら第2次世界大戦中はリベット工をしていた。
メトカーフは科学好きな利発な子どもであった。ベイショア高校時代から毎週土曜日コロンビア大学に通って、全米科学財団が後援するプログラムに参加してIBM7894コンピュータの講習を受けた。
メトカーフはMITに入学し、1969年、MITの電気工学科と経営学科を卒業した。不思議なことに大学院はハーバード大学に進み、1970年に応用数学科から修士号を受けた。博士課程もハーバード大学である。ハーバード大学にいながらMITのMAC計画に参加していた。これは多少研究に齟齬(そご)をきたしたはずである。
そしてメトカーフは、MAC計画にいながら、ARPAのIPTOのARPAネットの研究に参加していた。1972年、ICCCでのARPAネットの最初の公開展示会に視察に来たAT&Tの幹部の前でメトカーフがARPAネットのデモをやった。結果は見事に失敗し、AT&Tの幹部は安堵して帰っていった。
1972年、ハーバード大学は「理論の詰めが不十分」とし、メトカーフの博士論文を却下した。メトカーフは博士号を取れるものと考えて、ニューヨークから両親を呼び寄せていたし、またロバート・テーラーのコネでゼロックスのパロアルト研究所に就職を決めていた。
就職は博士号が取得できる見込みで決まっていたから、メトカーフは慌てた。メトカーフがテーラーに泣きつくと、「ともかく、こっちに来い。博士論文は、こっちで仕上げればいいさ」とテーラーはいったという。
1972年6月、何とかパロアルト研究所に勤め始めたメトカーフは、軍人たちにARPAネットの使い方を教えたりしていた。その関係でメトカーフはワシントンに出張することが多く、ワシントンではARPAネットのプログラム・マネージャとなっていたスティーブ・クロッカーの家に泊まった。ある晩、寝つけなかったメトカーフは、AFIPSという学会の講演予稿集を読んだ。そこにアロハネットの論文があった。
メトカーフはアロハネットのアイデアに衝撃を受けた。この晩に受けた天啓によって、メトカーフは博士論文を書き直し、ついに1973年にはハーバード大学の博士号を取得する。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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