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IT業界の開拓者たち

第41回 LANの歴史に残る人

脇英世
2009/4/7

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 1973年5月22日、メトカーフはイーサネットを発明したことになっているが、共同開発者で正直なデビッド・ボッグスは1973年11月11日だといっている。これは多分、博士論文の受理の日付である1973年6月と関係がある。まだ動かなかったものを動いたと書いて博士論文を通したのだと思う。

 最初のイーサネットの伝送速度は、現在の100/10Mbpsではなく、3Mbps(正確には2.94Mbps)であった。転送速度はALTOというワークステーションのビットマップ・ディスプレイの画面をEARSというレーザープリンタに効率よく打ち出す速度として決定された。

 メトカーフはイーサネットが出来上がると、すぐにARPAネットと接続した。これによってイーサネットにつながれたどのALTOワークステーションからでも、ARPAネットにアクセスできるようになったのである。

 1970年代初頭、ゼロックスのパロアルト研究所が作り出したビットマップ・ディスプレイとマウスを備えたALTOというコンピュータが後世に残した重要なポイントは3つあった。GUI、Smalltalk、イーサネットである。

 GUIはマッキントッシュとウィンドウズに継承され、Smalltalkは、オブジェクト指向言語に継承されている。イーサネットは現在のLANの主流である。

 メトカーフがパロアルト研究所で作り上げたものは、いまの10Mbpsのイーサネットとは、だいぶ違うものであったらしいが、ともかく100台のALTOをつないで実用的に動かした。

 その後、メトカーフは、イーサネットに関するDIX連合、つまり、DEC、インテル、ゼロックスの連合を作った。GMの失敗したIEEE802.4のトークン・バスから行き場に迷っていたDEC、インテル、ゼロックスの各社を、IEEE802.3のCSMA/CDつまりイーサネットに引き込んだのである。

 イーサネット(Ethernet)という名前は、相対性理論出現以前に盛んに研究されたエーテル(Ether)という物理学上有名な物質の名前から来ている。存在するらしいが見えない。見えないけれど存在するらしい。実はネットワークの理想がまさにそれだった。イーサネットとはネットワークの理想を表現した言葉だ。専門外の通訳だと、業界用語どおり「イーサネット」と訳さずに「エターネット」と訳すので吹き出すことがある。「エーテルネット」と日本語訳した方が日本人には分かりやすいかもしれない。

 メトカーフは1979年、3Com(スリーコム)という会社の設立に参加し、副社長となった。3ComはLAN専業の会社である。この社名は、コンピュータ、コミュニケーション、コンパチビリティの3つに共通するComに由来している。3Comは、めきめきと業績を伸ばし、1984年には株式を公開した。パソコンLAN業界では最大の会社となった。ロバート・メトカーフはまた1979年、DEC、インテル、ゼロックスの3社をまとめ上げ、イーサネットの普及を図った。

 ここで2つの悲運が到来する。1985年、3Comはメトカーフの発明したイーサネットでなく、IBMの採用したトークンリングLANを主力製品に採用した。メトカーフは反対したらしいが、受け入れられなかった。

 もっともこの件については、もしもイーサネットの流れを引く10BASE T(テン・ベース・ツイスト)が出てこなければ、1990年代初期にはトークンリングLANが主流になっていただろうといわれるし、当時まだ絶大な勢力を持っていたIBMの路線に沿おうとすることは、そう間違った決定とはいえないだろう。

 またメトカーフ自身もイーサネットの流れである10BASE Tの出現は予測できず、出てきたときは衝撃を受けたという。

 最大の悲運は、1987年、3ComがマイクロソフトのOS/2で採用するネットワークOS「LANマネージャ」の共同開発とマーケティングを行うと発表したことで訪れた。メトカーフはマイクロソフトのXENIX(ゼニックス)やホームバスで、1970年代後半からビル・ゲイツ(「ハンバーガーとコークで世界を征服した男」)と知り合いになっていたようだ。マイクロソフトの成功しなかったプロジェクトにだけ、メトカーフが登場するのは多少気になる。また伝説的なプログラマであるチャールズ・シモニュイ(「WYSIWYGを普及させたプログラミングの神様」)がパロアルト研究所からマイクロソフトへ移ったのも、メトカーフの作った転職先リストからだといわれている。

 さて、さまざまな紆余(うよ)曲折を経て、1988年、3Comは、3+(スリー・プラス)オープンLANマネージャを出荷する。3Comを率いるメトカーフは、ノベルのネットウェア打倒を宣言する。メトカーフ自身は、3ComがネットワークOSの分野へ乗り出すことに反対していたといっているが、そんなことはなかったように思う。

 当時、LANマネージャは3つあった。マイクロソフトのLANマネージャ、IBMのLANサーバ、3Comの3+オープンLANマネージャである。互換性のない3つのLANマネージャが狭いマーケットを食い合ったことが、市場の混乱のもととなった。1990年後半、ネットウェアの勝利は確定的になり、3ComオープンLANマネージャの敗北は決定した。完膚なきまでの悲惨な敗北だった。3Comはメトカーフを解任し、ネットワークOSから手を引いた。

 3Comの自己批判は、ここまでする必要があるのだろうかというくらい、猛烈なものであった。1991年の秋、3Comに立ち寄った筆者は、その自己批判のすごさにあぜんとしたことを覚えている。ネットウェアが絶対なのであり、LANマネージャを信奉したことは間違いであったというのである。メトカーフの方針は、ブリッジ・コミュニケーションズ出身者の批判を浴び、3ComはしばらくWAN(広域ネットワーク)の方へ避難をすることになる。

 ノベルはもともとネットワークハードウェアを作っていた。1983年からノベルを率いたレイモンド・ノーダはハードウェアを廃して、会社の資源をネットワークOS開発に傾注した。現在のノベルはソフトウェア主体のネットワーク会社である。メトカーフが率いた3Comはどちらかというと、ハードウェア主体のネットワーク会社である。ソフトウェアの方がハードウェアより強かったのだろうか。むしろ3Comの失敗は、したたかなマイクロソフトへの対抗戦略の失敗だったように思う。

 一時壊滅状態に追い込まれたLANマネージャはWFW、ウィンドウズNTでまた息を吹き返し、TCP/IPという衣装をまとって復活しつつある。ウィンドウズNTで構築できるLANは結局、LANマネージャのLANである。だから最近、昔のOS/2のLANマネージャのマニュアルを引っ張り出して読む。

 またあの時点からのやり直しか、とも思う。昔と違うのは、LANの構築が非常に安価で手軽になったことだ。

 3Comを追放されたロバート・メトカーフはIDGに行き『インフォワールド』誌の編集長になった。ずいぶんすごい転身をするものだ。

 メトカーフはイーサネットの発明者として歴史に名を残した。イーサネットの発明は1973年、実にメトカーフ27歳のときであった。本人は27歳までかかったことで、本当の天才とはいえない、と不満だったらしい。この辺に奇妙な屈託を感じる。天才でなければ、何歳でも構わないはずである。やはりメトカーフ自身、自分は天才に近いと考えているのではないかと思う。

 またメトカーフという人は、かなり感情的で衝動的な面を持つ人らしい。それでいて本人が語っているように「自分はハンターや殺人者としてでなく、農夫であり技術者であったとして思い出されることを希望する」といっていることから、やはり技術者でビジネスには向かなかったのかもしれない。アラン・ケイもそうだが、パロアルト研究所でALTOの技術開発に直接かかわってビジネスで成功した人の例はあまり聞かない。

 ロバート・メトカーフに関する最近の最も有名な話題は、筆禍事件である。ロバート・メトカーフは、インフォワールド誌1995年12月4日号の「エーテルから」という連載コラムで、「1996年、インターネットは破局的に崩壊し、ゴーストサイトだらけに」という表題で原稿を書いた。大物の癖にばかなことを書くと思ったものである。さらに1995年のWWW4カンファレンスでロバート・メトカーフは、もし自分の予言が当たらなければ自分の記事を食べてみせるといった。

 しかし、1996年にはインターネットの破局的な崩壊は起きなかった。

 そこで1997年4月、WWW4カンファレンスでロバート・メトカーフは落とし前をつけざるを得なくなった。演壇に立ったロバート・メトカーフはカンファレンスの会場の人々に、自分の記事が何百万もの人々にインターネットの問題に対する関心を喚起したのだから記事を食べなくともよいのではないかと尋ねた。聴衆の反応はノーであった。そこでロバート・メトカーフは泣き落としにかかり、誕生日が近いこと、幼い娘のこと、自分の胃腸が弱いことを上げて記事を食べるのを許してほしいといった。聴衆の反応は、再びノーであった。ロバート・メトカーフはいった。

 「わかった。わたしが悪かった」

 ロバート・メトカーフは彼の記事を模した大きなケーキを持ち出させて、これを切り取り、食べてみせた。聴衆は決然としてノーと叫んだ。

 そこで、ロバート・メトカーフはミキサーを取り出して、インフォワールド誌のくだんの記事を細かく引きちぎってミキサーに入れ、水を混ぜて断裁し、攪拌(かくはん)した。それをボールに移してスプーンで味見し、全部飲んだ。聴衆は拍手喝さいした。計画された演出であって、初めから全部飲む気でいたのだろうが、あまり名誉なことではなかった。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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