第47回 フリーソフトの導師
脇英世
2009/4/16
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
リチャード・ストールマン(Richard Stallman)――
GNUプロジェクト創設者
リチャード・ストールマンは、1953年3月16日、ニューヨークのマンハッタンに生まれた。コンピュータに初めて触ったのは、1969年、IBMニューヨーク科学センターでのことで、当時16歳であった。文献には科学センターとあるのだが、1986年のスウェーデン王立工科大学における本人の講演では、IBMの研究所だったと述べている。さらにスティーブン・レビーの『ハッカーズ』では、マンハッタンにあった計算機センターとあり、この辺は、いまいちあいまいだ。
1970年、マサチューセッツ州ケンブリッジに行ったリチャード・ストールマンは、ハーバード大学の物理学科に入学した。1971年、ハーバード大学と同じボストンにあるMITのAIラボ(人工知能研究室)に遊びに行った。「MITに入った」と日本語訳してある文献があるが、原文は「Richard Stallman had come to MIT」であり、MITには入学したわけではない。
リチャード・ストールマンがMITのAIラボに遊びに行っている間、AIラボの管理者ラス・ノフツカーの目に留まり、システムプログラマとして雇われた。つまり、アルバイトの技術職員となったわけである。学業成績は優秀だったようで、1974年にハーバード大学物理学科を2番で卒業している。
1971年から1983年に及ぶ12年間のMITのAIラボの生活で、リチャード・ストールマンはLISP文化とハッカー文化に色濃く染まった。コミューン文化と共有の思想などに基づくハッカー的な武勇伝についての伝説は多い。一方、リチャード・ストールマンがどのような仕事をしていたか、資料はほとんどないため、MITのAIラボの全文献リストから抜き出して調べてみた。
1975年 CA回路解析における発見的方法
1976年 CA回路解析システム
1979年 Emacs
1980年 ITSユーザー用EMACS
1980年 TWENEXユーザー用EMACS
1980年 ファントム・スタック
1982年 リモート編集用ローカルフロントエンド
1983年 SUPDUPプロトコル
これを見ると、リチャード・ストールマンは比較的まじめに仕事をしていたことが分かる。
MITのAIラボは国防総省から軍事研究の委託を受け資金的に潤沢であり、皮肉にもその環境で、反戦思想とコミューン文化に影響されたハッカー文化が育った。ハッカー文化が最も嫌ったのは、管理思想と商業主義であった。ハッカー文化はセキュリティを嫌い、ソフトを書くことを金もうけの手段と考えることを、最も軽蔑する純粋主義であった。コンピュータ・ユーザーの間でのソフトの共有は、最も自然な共同作業の形態であると考えられた。
しかし、MITのAIラボにも管理思想と商業主義の波は押し寄せてきて、1983年、リチャード・ストールマンはAIラボを去り、自己の理想を追求することになった。
1985年3月、リチャード・ストールマンはGNUプロジェクトの開始に当たり、参加と支持を求めてGNU宣言を発表する。GNUとは「GNU's Not Unix」の略であり、ハッカー文化の伝統である再帰的な名前の付け方に従っている。Gは発音する。GNUは完全にUNIX互換なソフトウェアシステムの名前である。最近リチャード・ストールマンが語るところによれば、GNU宣言は企業に寄付を求めるつもりで書いたそうだ。しかし企業は大して寄付をくれなかったようである。
GNUは当初、GNU Emacsエディタを提供していた。テキストフォーマッタとしてはTeXを使用し、X-ウィンドウシステムとコモンLISPを提供するものだった。またGNUは、パブリックドメインには提供されていない。誰でもGNUを変更し、再配布することは許されるが、再配布を制限することは許されない。また、プロプライエタリの変更も許されず、必ずリチャード・ストールマンに報告しなければならない。GNUはソフトを共有するフリーソフトの源流になるが、無料とはどこにもいっていない。フリーは無料ということでなく自由を意味する。自由とは秘密のないソフトということである。リチャード・ストールマンは、ソフトには所有権を持たせるべきでないとし、コピーレフトの思想を主張した。
GNUプロジェクトはUNIXを作るための計画だったが、GNU Emacs、GNU Cコンパイラ(GCC)、GNUシンボリックデバッガ(GDB)が先行し、GNUそのものの開発は遅れた。GNUのカーネルは、当初TRIXと呼ばれた。その後、GNUのカーネルは、Machのマイクロカーネルの考え方を取り入れる変更が行われるなどして、現在はHURDと呼ばれている。実際にはLinuxがGNUの理想を実現してしまい、リチャード・ストールマンはLinuxをGNU Linuxと呼ぶことを主張している。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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