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IT業界の開拓者たち

第48回 ネットワークコンピューティングの推進者

脇英世
2009/4/20

第47回1 2次のページ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ラリー・エリソン(Larry Ellison)――
オラクル会長兼CEO

 ローレンス・ジョセフ・エリソン、通称ラリー・エリソンは、1944年8月17日、マンハッタンのローアーイーストサイドに生まれた。19歳の未婚の母フローレンスは、ラリーが生まれると、シカゴのノースサイドに住む親せき(ラリーにとって叔母にあたるリリアン・エリソン)の家に預けた。エリソン夫妻はラリーを養子にした。エリソン家はロシア系ユダヤ人の血筋で、リリアン・エリソンも実母のフローレンスもユダヤ人だから、息子のラリー・エリソンもユダヤ人ということになる。

 ラリー・エリソンが高校2年生のとき、一家はシカゴにあるサウスサイドのサウスショアという地域に引っ越した。サウスショアは黒人とプエルトリコ人とヒスパニック系の人々の居住区に囲まれたユダヤ人居住区であった。居住区と訳したがゲットーという言葉が使われているため、一般には麻薬と銃が支配する物騒な地域という印象を与えかねない。貧困で危険な地域だと人々は考えたがるが、現在はいざしらず、昔は単に低中所得階層の人々が暮らす地域であった。第2次大戦中に五大湖周辺の工業地帯で労働力が不足したため、南部から半分強制的に黒人を連れてきて労働力として酷使した結果、黒人のゲットーが増えた。ラリー・エリソン自身がサウスショアは貧困で危険な地帯だと吹聴したこともあるらしい。マスコミも貧困の中から自分の力だけで成り上がった大富豪という虚像を欲しがるらしい。

 1962年9月、ラリー・エリソンはイリノイ大学のシャンペーン・アーバナ校に入学し、1964年の5月に中退した。学業成績は褒められたものではなかったらしい。もっとも、あまり学校に行っていたとは思えない。ラリー・エリソンはイリノイ大学を中退した後、シカゴ大学に入学したが、これも長続きしなかった。ベトナム戦争の時代で、シニシズムや虚無感や捨て鉢な気分が若者の心の中に忍び込みつつあった。このころラリー・エリソンはIBMのコンピュータでプログラミングを覚えた。独学であり、コンピュータの系統的な教育を受けたことはないが、大学を卒業したとか大学院を卒業したとか自称したこともあった。

 1966年、ラリー・エリソンはカリフォルニア州立大学バークレー校に入った。サンフランシスコの職業安定所でアダ・クインと知り合い結婚した。大学には少ししか行かなかった。妻には大学に行っているといっていたが、実はIBMのコンピュータ関連のアルバイトをしていた。気ままな生活であった。貧しいながら極端に豪奢なふるまいを望むようなところがあった。1974年、アダ・クインはラリー・エリソンと離婚した。離婚しても2人の交際は続いた。

 1973年ラリー・エリソンはアムダール・コーポレーションに就職した。アムダール・コーポレーションの株式の45%は富士通が持っていた。そこでラリー・エリソンはアムダール・コーポレーションの仕事で日本に出張し、その余暇に京都へ出掛けて日本の伝統文化に触れ、強い感銘を受けた。ラリー・エリソンがその生涯で、大きな感動を覚えた景観は2つある。1つはヨセミテ渓谷、もう1つが京都であった。後年、成功すると、アサートンに日本趣味の大邸宅を建てた。桂離宮を手本に作ったという邸宅は超一流の日本庭園、茶室をそろえ、日本のかぶとのコレクションも備えている。この人のやったことで唯一まともなことは、日本文化の紹介ではないかと思わせるほどだ。

 ラリー・エリソンはほどなくアムダール・コーポレーションの人員整理の対象になり職を失った。その後、システム開発担当副社長としてアンペックスからプレシジョン・インスツルメンツに移った。

 1977年6月、ラリー・エリソンはアンペックス時代の同僚ボブ・マイナー、エド・オーツと一緒に、ソフトウェア・デベロップメント・ラボラトリーズ(SDL)を設立した。資本金わずか2000ドルの小さな会社であった。SDLはプレシジョン・インスツルメンツ向けのプログラムを開発した。

 ところが開発のめどがつくと、SDLはプレシジョン・インスツルメンツのPDP11を使ってRDBのプログラム開発を始めた。このプログラムが「オラクル」と呼ばれた。

 1976年11月、IBMはリレーショナルデータベース(RDB)のシステムRとSQL言語を発表したが、IBMはRDB開発が自社の既存データベース製品の存在を脅かすという心配から、製品化には乗り気ではなかった。IBM以外の会社や研究所もRDBの製品化に熱心ではなかった。RDBを実装しても高速化は望めず、また基幹業務にRDBは使えないだろうと信じられていたからだ。UCバークレーがイングレ(INGRES)の開発を始めたくらいである。しかし、RDBに注目した軍は、やる気さえあれば誰でもいいからRDBの製品化をやらせたいと考えていた。RDBは手付かずの金鉱であった。SDLはそこにめがけて無手勝流でしゃにむに突進するのである。

 1978年、SDLはシリコンバレーのメンローパークに移転し、リレーショナル・ソフトウェア・インク(RSI)と社名変更した。社員わずか5人の会社である。当初の顧客はCIAと海軍であった。CIAはオラクルをIBMのメインフレームとDECのVAXの両方で動かすことを要求した。海軍はオラクルをVAXとUNIX上で動かすことを要求した。RSIはC言語を使ってオラクルを書き直した。

 少し話に整合性がないが、ラリー・エリソンによれば、オラクル1の最初の納入先は米空軍ライト・パターソン基地(1979年11月)であったという。もっとも、ラリー・エリソンの話に整合性などあるわけがない。

 1982年、IBMがSQL/DSを発売した。IBMもやっとSQLに向かった。ただIBMはおよび腰であり、メインフレームの世界の話だったので、VAXの世界で活動していたオラクルとは競合しなかった。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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