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IT業界の開拓者たち

第49回 偶然の帝国の支配者

脇英世
2009/4/21

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

ミッチェル・カーツマン(Mitchell Kertzman)――
元サイベース会長兼CEO

 ミッチェル・カーツマンは1949年、マサチューセッツ州ボストンに生まれた。この人の人生は波瀾(はらん)万丈、実にドラマチックで、そのまま小説にでもなりそうだ。彼の話はとても面白いので、インタビュー記事は非常に長くなる。ただ、話に多少の脚色もあるので、最低4、5本のインタビューを読んで、批判的に再構成しなければならない。

 ミッチェル・カーツマンは、少年時代はフォークに凝り、普段の生活もあまりまじめとはいえないようなタイプだったらしい。ブランデイズ大学に入学したが、1968年、入学からわずか1年でドロップアウトした。勉強はあまり好きではなかったらしい。大学を辞めたミッチェル・カーツマンは、ボストンのロック専門放送局WNBCのディスクジョッキーに応募し、4カ月間勤めた。ディスクジョッキーを辞めた理由ははっきりしないが、当時の時代風潮で、反戦暴動を扇動したと誤解されるようなことを放送で喋ってクビになったらしい。

 ディスクジョッキーの職を失ったミッチェル・カーツマンは、1968年の夏、ガソリンスタンドで働いていた。ボストンに厳しい冬がやってくると、ミッチェル・カーツマンの母親は、友達のつてを頼って彼に室内の仕事を見つけてやった。それがオーディオ・ビジュアル制作を得意としていた教育ソフト会社インタラクティブ・ラーニング・システムでの仕事だった。

 インタラクティブ・ラーニング・システムには大型コンピュータのほかに、商用タイムシェアリングサービスに接続されたタイムシェアリングターミナルがあった。このタイムシェアリングサービスに魅せられたミッチェル・カーツマンは、上司の副社長にタイムシェアリングターミナルの使用許可を願い出た。副社長はプログラムに関する報告を条件に100ドル分の時間使用許可を与えた。こうしたことが4カ月続いたらしい。

 ミッチェル・カーツマンが書いた最初のプログラムは1から20までの数をページの左側に、それぞれの数の2乗をページの右側に印字する簡単なものであった。このプログラムをきっかけに、ミッチェル・カーツマンはプログラムにのめり込んでいく。彼はそれまで、いかなるプログラムの教育も訓練も受けていなかったが、プログラミングは得意で好きだった。ただし、その技量がどれほどかについては、こんな話が残っている。インタラクティブ・ラーニング・システムに入社した新人プログラマは、ミッチェル・カーツマンのプログラムを見せられてこういわれたそうだ。

 「こんなプログラムを書いたらすぐにクビだ」

 2年間でミッチェル・カーツマンはその教育ソフト会社のすべての開発業務を手掛けるまでになっていたと自分でいっている。しかし、せいぜいがBASIC止まりのはずで、この話は少し怪しい。

 1972年、インタラクティブ・ラーニング・システムが経営的に危機に陥ると、ミッチェル・カーツマンはいくつかの仕事を始めた。

 最初の仕事はバイオリズムを印刷するプログラムを書いてこれを郵送することであった。これはBASICの簡単な例題でどの本にも書いてあることであるし、仕事として成功するわけがない。

 次に手掛けた仕事はミュージックマシンであった。ミッチェル・カーツマンはロックバンドのデータベースを持っていた。これを利用し、大学やクラブなどの顧客から注文があると、注文に合ったバンドを斡旋したり切符を売ったりした。この商売は失敗だった。ロックミュージシャンが斡旋料の支払いをまったくしなかったからである。この2つの話を分析すると、ミッチェル・カーツマンの技量がどの程度のものだったか分かる。

 何とか自立を続けたいと願うミッチェル・カーツマンは、1974年マサチューセッツ州ウエストニュートンにコンピュータ・ソリューションという会社を設立した。しかし、本人が語るところによれば、「ビジョンなんてなかった。ただ食うためにプログラムしていた」ような会社で、頼まれれば何でもプログラムしていた。社員は数年間というもの社長のミッチェル・カーツマンただ1人だった。当時は、まだミニコンピュータですら高価で、ほとんどの中小企業がタイムシェアリングサービスを利用していた。ミッチェル・カーツマンはタイムシェアリングの時間が余っている会社を見つけ出し、余っている時間を買った。ミッチェル・カーツマンは顧客の注文に応じてプログラムして売り、顧客はミッチェル・カーツマンの買い上げた時間を使って計算を実行した。

 コンピュータ・ソリューションの成功は、ミッチェル・カーツマンがある製造会社向けに書いたMRP(Material Requirements Planning)プログラムによる。このアプリケーションが成功すると、その会社の社長がまた別の製造会社の社長を紹介してくれた。ただ技量的には「GOTO文だけでMRPプログラムを書いたといわれた」とミッチェル・カーツマンが冗談をいっている程度だったらしい。しかし、優秀なプログラマは、製造業向けのMRPプログラムなどは頼まれてもやりたがらなかったのであり、ともかく動くものをちゃんと書いてくれる存在は重要だったのである。こうしてミッチェル・カーツマンは、孤軍奮闘し、次第に製造会社向けのMRPシステムのニッチ市場に君臨することになった。MRPビジネスも次第に大きくなり、タイムシェアリングシステムを利用する形態から専用のHP3000上で展開されるように成長していった。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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