第55回 MPEGの父といわれる男
脇英世
2009/4/30
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
レオナルド・キャリリオーネ(Leonardo Chiariglione)――
MPEG委員会委員長
レオナルド・キャリリオーネは1943年、北イタリアのピエモント地方、チューリン郊外にあるアルメセという村に生まれた。父親は大工であった。キャリリオーネというスペルはChiariglioneと綴り、初めて見た際に正しく読むのは極めて難しい。
キャリリオーネは子どものころから利発で、勉強がよくできた。特に語学的なセンスは抜群であり、古典ギリシャ語とラテン語に秀でた才能を持っていた。それだけでなく、日本語、中国語、ポルトガル語、フランス語に加えて、多数の外国語も後に習得している。また、古典にも造詣が深い。例えば、「通信の標準:Gotterdammerung」などという表題の論文を書くことから、そのことがうかがえる。 Gotterdammerungとは、ドイツ語で「神々の黄昏」を意味する言葉で、北欧神話における世界の滅亡のことである。論文の表題は、リヒャルト・ワグナーによる同名の歌劇を踏まえているのだろう。マルセル・プルーストを読んでいなければ、とても気が付かなかった。さらに、さりげなくラテン語から引用することもある。
キャリリオーネは、チューリンにあるポリテク大学の電気工学科を卒業し、同大学院の修士課程を修了した。そして、1973年には東京大学で博士号を取得している。研究テーマは、電気通信におけるストカスティック・プロセスの理論的研究であったという。わざわざイタリアから日本にやってきて博士号を取ろうとは、何とも奇特な人である。自身が語るところによると、その研究業績は極めて華々しいものがある。以下、年代順に追ってみた。
- 1975年、RAMベースのビデオシミュレータ
- 1979年、DCT(離散コサイン変換)ベースの静止画伝送システム
- 1982年、CCITT(国際電信電話諮問委員会)H.120テレビ会議符号化
- 1985年、H.120マルチポイントテレビ会議ユニット
- 1986年、CCIRカンファレンス(国際無線通信諮問委員会)勧告601と656のインプリメンテーション
- 1988年、ISDN(サービス総合デジタル網)テレビ電話の基本アクセス
- 1991年、MPEG1標準のリアルタイムインプリメンテーション
- 1994年、MPEG2標準のリアルタイムインプリメンテーション
- 1996年、ARMIDA ATM(非同期転送モード)とIP上でのDAVIC1.0
- 1998年、ArmidaFourMPEG4クライアントサーバシステム
1971年からは、CSELT(テレコム・イタリアグループのコーポレート研究センター)に入社した。CSELTではテレビ関係の仕事を割り当てられ、本人は大いに気に入った。そこでは、マルチメディアサービスと技術研究部門長を務めている。その後、いろいろな職に就いているが、現在も正式な所属はCSELTになるらしい。
1986年には、HDTV(高品位テレビ)のワークショップを始めた。これは、HDTV単一の規格をCCIRが受け入れなかったからといわれている。キャリリオーネは子どものころ、ジョン・F・ケネディ大統領の演説を聞いて、「世界市民」という考え方に共鳴していたという。
1987年、キャリリオーネは静止画像と音声の圧縮に関するJPEGの委員会に出席した。ここでJPEGの委員会について、ちょっと説明するが、これだけでは全然分からないかもしれない。とはいうものの、極めて複雑に絡み合った国際的な業界政治の世界だから、分からなくても差し支えはないだろう。
もともと、ISO/IEC JTC1/SC2という組織があった。順に説明すると、ISOが国際標準化機構で、IECは国際電気標準会議、JTC1は合同技術委員会1、そしてSC2とは専門部会2のことである。さてその一方では、CCITT SGVIIIという組織がある。CCITTは国際電信電話諮問委員会の略で、SGVIIIとは研究委員会VIIIを示している。少々ややこしいが、これらISO/IEC JTC1/SC2およびCCITT SGVIIIによって、共同で設立されたのがJPEG(ジョイント・フォトグラフィック・コーディング・エキスパート・グループ)なのである。
JPEGグループの委員長は、安田浩氏(東京大学教授、当時)が務めていた。そこでキャリリオーネは、ISO/IEC JTC1/SC29議長でもあった安田浩教授を説いて、新しくMPEG委員会を設立しようと画策した。すでに読者もご存じかと思うが、MPEGとは動画像と音声の圧縮に関する標準規格のことである。
この結果、1988年にはISO/IEC JTC1/SC29/WG11として、キャリリオーネを委員長とするMPEG(ムービング・ピクチャ・エキスパート・グループ)委員会が誕生した。ちなみにWG11とは、作業部会11の意味である。MPEG委員会は当初15人で発足したが、次第に巨大になり、300人を擁するまでになった。こうした事情から、MPEGはある意味日本が生んだ国際標準といっても、差し支えないかもしれない。
MPEG委員会は、まずMPEG1を生み出した。MPEG1は1.4Mbps程度の伝送速度でコンパクトディスクから圧縮された動画像データを読み出す可能性を探ったものであった。余談になるが、MPEG1が一番普及した国はどこかご存じだろうか。まったく意外なことに、過去の技術に対するしがらみのなかった中国だった。
続いて登場したMPEG2は、デジタルテレビにおけるインターレース画像を10Mbps程度の伝送速度でデジタル符号化するための標準規格になろうとした。また、40Mbps程度の伝送速度で画像圧縮符号化を狙ったMPEG3もあったが、こちらはMPEG2に吸収されている。さらに、MPEG委員会はDSM(デジタル・ストレージ・メディア)-CCというサーバから、セットトップボックスに対するプロトコル、AAC(アドバンスド・オーディオ・コーデック)標準、MPEG4などを生み出した。そして現在では、MPEG7やMPEG21が検討されている。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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