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IT業界の開拓者たち

第58回 世界を駆け回る伝道女

脇英世
2009/5/8

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

エスター・ダイソン(Esther Dyson)――
元フォーブス記者、企業アナリスト、エドベンチャー会長

 エスター・ダイソンは、コンピュータやインターネットの世界に君臨している女性だが、彼女がどのような人物であるかを説明するのは、非常に難しい。その肩書の筆頭として挙げられるのは、エドベンチャー・ホールディングス(EDventure Holdings)の会長職である。同社の仕事で最も有名なものは、「リリース1.0」(Release1.0)という月刊ニュースレターの出版で、副題は「エスター・ダイソン・マンスリー・レポート」となっている。

 それ以外では、EFF(Electronic Frontier Foundation)のメンバーとしても名を連ねている。EFFは、数年前「通信の品位に関する法律」に関して、ブルーリボンを旗印にインターネット上で檄(げき)を飛ばし、言論の自由を求めて戦い、政府を苦境に追い込んだ組織として知られている。さらに、彼女はNII(National Information Infrastructure:全米情報基盤)の顧問会議メンバーであり、NII顧問会議においては、情報、プライバシー、知的所有権小委員会の共同議長にもなった。

 ロシア語に堪能なエスター・ダイソンは、最近ロシアや東欧で過ごす時間が多く、モスクワで開かれるComtekやインターナショナル・コンピュータ・フォーラム、ウィンドウズ・エキスポなどのイベントや、ブカレストで開かれるCERFでも基調講演をすることも多い。エスター・ダイソンの肩書はたくさんあるが、彼女に関する情報はコントロールされているらしく、どの資料を読んでも、ほとんど同じことしか出てこないのが残念だ。

フリーマン・ダイソンの娘

 1939年、プリンストン大学の大学院長の夫人であるアイゼンハルト夫人は権勢を誇っていた。夫人の開くティーパーティがプリンストン大学の社交界の中心であり、誰もが彼女の意に沿わないわけにはいかなかった。

 ただし、例外といえる人物が2人いた。1人はプリンストン高等研究所のアルバート・アインシュタインであり、もう1人が若き大学院生リチャード・ファインマンであった。ファインマンがティーパーティに誘われたとき、アイゼンハルト夫人が聞いた。

 「お茶にはクリームにしますか、それともレモンにしますか? ファインマンさん」

 ファインマンは無邪気に次のように答えた。

 「両方いただきます。ありがとう」

 当惑したアイゼンハルト夫人はいった。

 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」

 このファインマンの面目躍如たる伝説は、ついに自伝の書名『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にまでなってしまった。

 ファインマン自身は書いていないが、アルバート・アインシュタインがアイゼンハルト夫人に睨まれていたことや、夫人によるいじめがあったことを、フリーマン・ダイソンが『レモンとクリーム』に書いている。量子電磁力学の権威で群論をはじめとする難しい数学を駆使していたフリーマン・ダイソンだが、その文章も読ませる。実は、この人物こそエスター・ダイソンの父親なのである。これを知ったときには驚嘆した。

 フリーマン・ダイソンは、1923年に英国のクローソーンに生まれた。ウィンチェスターのパブリック・スクールに通い、当時彼の父親も同じパブリック・スクールの音楽教師を務めていた。彼の父親は、後年、王立音楽単科大学を経営することになる。さらに、音楽家組合の最高責任者でもあった。

 ケンブリッジ大学に入学したフリーマン・ダイソンは、第二次世界大戦が激化していた1943年、英空軍の爆撃機部隊にオペレーションズ・リサーチ要員として入隊した。そして1945年に終戦すると、2年間の軍隊生活を終えて復学し、数学科を卒業した。フリーマン・ダイソンといえば量子電磁力学で有名だが、大学での数学の専攻は意外にも数論であったという。

 1947年、ケンブリッジ大学、バーミンガム大学で2年を過ごした後、奨学金をもらって米国に渡り、コーネル大学、プリンストン高等研究所で学んだ。コーネル大学では、物理学者のリチャード・ファインマンやハンス・ベーテの影響を受けて数学から物理学へ転向している。さらにプリンストン大学高等研究所での指導教官は、有名な原子核物理学者ロバート・オッペンハイマーであった。

 1948年、フリーマン・ダイソンはプリンストン大学高等研究所時代に、ベレナ・ヒューバーという東独生まれの女性に出会う。彼女もまた数理論理学者であった。2人を結び付けたのは群論であった。やがて2人は結婚する。

 1949年、英国に帰国した後、バーミンガム大学の研究員になる。そして、1950年には、次女としてエスター・ダイソンが生まれている。翌年の1951年に、フリーマン・ダイソンは再び米国に戻り、コーネル大学で物理学の教授になった。このあたりの経歴は随分慌ただしい。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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