第59回 対話型ファンタジーシステムの伝道者
脇英世
2009/5/11
本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部) |
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
ブレンダ・ローレル(Brenda Laurel)――
元アタリ、アクティビジョン社員、作家
ブレンダ・ローレルという名前を知らなくても、1991年に出版された『劇場としてのコンピュータ』という書名に聞き覚えがある人は少なくないのではないだろうか。理由は、この書名の引用をさまざまな場面で見掛けるからだが、実際のところ、それほど読まれてはいないようである。案外、この有名なフレーズがブレンダ・ローレルの書いた単行本の題名であるということを知らない人は多いのかもしれない。彼女の論稿はけっこう多いが、単行本はこの1冊に限られ、そのほかに監修した書籍としては1990年の『ヒューマンコンピュータ・インターフェイス設計の手法』などがある。また、インターネット上で読める文書として、1992〜1998年の「切断された首:技術、芸術、自然に関するノート」がある。
当初、演劇の道を志していたブレンダ・ローレルは、1972年にインディアナ州のデポー大学弁論演劇学科を卒業し、1975年にはオハイオ州立大学大学院の演劇・俳優・監督学科の修士課程を修了した。サイバー・ビジョン社へ入社したのは1977年で、以後コンピュータの世界に身を置くことになる。同社では、ソフトウェアデザイナー兼プログラマとなった。プログラムをこなし、グラフィックスデザインやオーディオを手掛け、PR活動やマーケティングを行い、コーヒーを入れたという。要するに、修業として、何でもやらされたようだ。こうした下積みをこなし、翌1978年には、教育製品の設計担当マネージャとなっている。サイバー・ビジョン社のホームコンピュータ用に教育ソフトと対話型のアニメが付いた童話を設計し、インプリメントした。
1980年、ゲームで有名なアタリ社に入社したブレンダ・ローレルは、ホームコンピュータ部でソフトウェア設計のスペシャリストとなり、教育分野での製品開発を指導した。ここでは、ヒューマンファクターのチェックリストを書いている。翌1981年には、ソフトウェアマーケティング担当のマネージャに昇進し、自社のホームコンピュータのため、ソフトウェアプランニング、マーケティング、製品管理、ソフトウェアの評価を作成し、これを管理した。
こうして、家庭用ゲーム機のための製品計画と管理といった仕事をこなし、教育製品を中心に手掛けてきたことは、後の進路を決定付けることになる。そのほか、子どもたちがアーケードゲームをしている様子が好きで、よく見に行ったという。
1982年にブレンダ・ローレルは、ホームコンピュータ部を辞めた。そしてアラン・ケイに電話をかけ、アタリのサニーベール研究所のシステム研究グループで、研究員として働くことになる。当時、ポンからアステロイドに至るアーケードゲームで大ヒットを飛ばしていたアタリには、豪勢な研究所を構える資金力があり、さらに大物研究員を引き抜くことができた。こうして研究員の目玉としてスカウトされてきたのが、Smalltalkやダイナブック思想の提言で有名なアラン・ケイである。
アラン・ケイの下では、対話型ファンタジーの理論と、そのシステムアーキテクチャを開発した。大学で演劇を本格的に勉強していたことが、新しい対話型ファンタジー理論の構築に役立った。この時代の活動は、ハワード・ラインゴールドの著書『思考のための道具』の第12章「ブレンダと分隊」に描かれており、有名である。たぶん、彼女の名を世に知らしめるのに、最も効果があったのは、1985年に出版されたこの書物だったように思う。もともと女優であると公言しているブレンダ・ローレルのプレゼンテーションは、アラン・ケイをも食ってしまうほど見事なもので、ハワード・ラインゴールドをいたく感激させたといわれている。
当時、ブレンダ・ローレルが取り組んでいた開発は、アタリの顧問をしていたMIT(マサチューセッツ工科大学)のネグロポンティによる「空間データ管理」という研究に影響を受けていた。アタリのサニーベール研究所には、システム研究グループが利用していたメディアルームという実験的な施設が用意されていた。メディアルームは「インターフェイスのないコンピュータ」もしくは「すべてがインターフェイスのコンピュータ」であった。要はバーチャルリアリティの先駆けのようなシステムである。また、これに知識データベースを備えたエキスパートシステムを組み合わせようとしていた。
1983年になると、ビデオゲーム業界は超過当競争となっているにもかかわらず、需要が急速に冷え込んでいき、大瓦解が起きた。アタリの親会社であるワーナーコミュニケーションズの損失は5億3800万ドルにも上った。このため、1984年にアタリはリストラを実施しなければならなくなり、結局システム研究グループは全員が解雇された。ブレンダ・ローレルも、その例外ではなかった。
アタリを解雇されたブレンダ・ローレルが、新たに入社したのがアクティビジョン社であった。同社では、開発・学習部門の製品開発担当ディレクターを務め、戦略策定、製品ライン管理、プロデュース、設計のコラボレーションに参加した。そして、ルーカス・フィルムとトム・スナイダー・プロダクションへのリエゾーン(接触役)になった。このころ、ニューメディアの技術を勉強し始めている。
本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の開拓者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。 |
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