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パソコン創世記
京セラ、稲盛との出会いが生んだ2つの未来志向マシン開発計画

ロータス 1-2-3

富田倫生
2010/4/8

「マイクロソフトに行って働いてみる?」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

 1978年にTRS-80を手に入れたケイパーは、続いてアップルII も買い求め、関連の雑誌を読みふけるようになった。知り合いの大学院生のために、グラフ作成や統計、数式処理の機能を組み合わせたタイニートロールと名付けたプログラムを書いた。1979年には、ビジカルクの発売元となっていたパーソナルソフトウエアと契約して、表計算にタイニートロールの機能を与える2本のソフトウエアを開発することになった。1981年に発売されたグラフ作成用のビジプロットと統計作業用のビジトレンドは、ケイパーに大きな収入をもたらした。

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 1981年8月にIBMがPCを発表すると、ケイパーは新世代の表計算ソフトを書く絶好の機会が訪れたことを直感した。

 表計算ではじき出した結果をグラフ化し、データベースの機能をはじめからあわせ持たせた統合表計算プログラムを、16ビットに踏み込んだIBMの新しいマシン向けに書くというプランに、ケイパーは絶対の自信を持っていた。以前、投資家のベン・ローゼンから、自分でも使っているのだというタイニートロールに関する問い合わせを受けたことのあったケイパーは、彼ならこのプランの可能性を理解するのではないかと考えて連絡をとった。ローゼンはすぐに、100万ドルの出資を約束した。1982年4月、ケイパーは資本金100万ドルでロータスディベロップメント社を設立し、1-2-3と名付けられることになる統合表計算ソフトの開発に着手した。

 社名のロータスは仏の座る蓮華座から、1-2-3という製品名は、第1ステップの表計算で処理したデータを第2ステップでグラフ化し、第3ステップにデータベースの機能を用意するとの意味を込めて付けた。

 この1-2-3の開発にあたって、ロータスはROMベーシックではなく、標準OSとして位置づけられたPC-DOS上でアセンブラを使ってプログラムを書く道を選んだ。

 すでにCP/Mが広くアプリケーション開発の基盤となったことを見てきたケイパーには、新世代の速いアプリケーションをOSに対応させて書くことには何の迷いもなかった。ただし、もともとミニコンピュータ用のOSを手本にして生まれたCP/Mをそのまま16ビットに対応させたPC-DOSには、グラフィックスに対応した機能が備わっていなかった。

 数値と文字だけを処理するこれまでの表計算なら、CP/MレベルのOSの枠の中でも、充分に書くことができた。ところが計算結果をグラフ化し、しかもグラフを高速で描こうとする1-2-3の目標は、PC-DOSの提供するサービスの範囲を超えていた。OSが取り扱いを想定していないグラフィックスに踏み込んだプログラムを書こうとすれば、プログラマはPCのハードウエアの細かな作りを理解したうえで、OSを頼らずに直接ハードウエアに動作を指示するしかなかった。さらにプログラムの処理速度を上げるうえでも、ハードウエアに直にアクセスする方が有利な場合があった。

 ただし、そうした作法でプログラムを書けば、せっかくPC-DOSに対応させて書いたものが、同じマイクロソフトのMS-DOSを採用した他の機種では動かなくなるという懸念はあった。だが、ロータスは爆発的な人気を集めているPCで、高度な機能を実現した速いプログラムを提供することに関心を集中させた。

 OS上で開発を行う際には、複数の選択肢の中から開発言語を選ぶことができた。中でもアセンブラは、コンパクトで速いプログラムを書くという点では有利だった。一方、移植のしやすさの観点からは、アセンブラは最悪の選択だった。だがロータスはここでも、PCへの集中を徹底させた。

 この1-2-3への投資を行ったばかりのローゼンは、高級ポータブル機にIBM PCとの完全な互換性を与えるというもう1つの特長を与えたい、とロッド・キャニオンが提案した段階で、150万ドルの出資の腹を固めた。

 単にMS-DOSを採用するだけでは、コンパックのポータブル機は開発中の1-2-3を走らせることができない。だがPCとの完全な互換性に踏み込めれば、1-2-3をはじめとして今後、続々と登場してくるPC用のソフトウエアをそのまま走らせることができる。今後登場してくるソフトウエアがどんどんグラフィックスに踏み込んで機能を強化したとしても、PCの完全互換機なら問題は起こらない。

 もちろん、IBMが大型機同様、パーソナルコンピュータも特許で守った自分たちの技術で構成していたなら、彼らの権利を侵さずに互換機を作ることは難しかったろう。だが彼らは構成要素をほとんどすべて外部から調達したうえに、PCに関しては徹底した情報公開を行っていた。IBM自身が用意したのは、ハードウエアとOSとをつなぐBIOSとバスの規格だけだった。そのBIOSに関して、IBMが内部の構造をそのまま見ることのできるソースコードまでさらしている以上、彼らの権利を侵さずに同じ機能を持ったBIOSを別個に開発することは充分可能だろう、とキャニオンは考えた。

 1982年11月、ロータスディベロップメントはラスベガスで開かれた秋のコムデックスで1-2-3を発表した。従来の表計算ソフトに比べればはるかに大きな表を設定でき、グラフとデータベースの機能を備え、再計算のスピードがきわめて速い1-2-3は、出荷を前にして早くも人気沸騰となった。そして同じ11月に、コンパックは初めてのPC互換機となるポータブルI の発表を行った。9インチのブラウン管白黒ディスプレイを備えた8088マシンのポータブルI は、飛行機の座席の下に収まる寸法で、約12キログラムと、確かに持ち歩けなくはない重量に収まっていた。

 だが、IBMがオプションにまわしていたOSを標準で備えたポータブルI はむしろ、省スペースのPC互換機として注目を浴び、その後コンパックはデスクトップ型の高性能PC互換機で急成長を遂げていくことになった。ポータブルI は、PC互換機の原点としてこそ記憶された。

 一方、1983年3月にタンディから売り出されたモデル100は、A4サイズで2キログラムを切る、掛け値なしに持ち運び可能なマシンとなっていた。8ビットのベーシックマシンであるモデル100には、当然PCとの互換性はなかったが、ビル・ゲイツの読みに反してヒット商品となった。特にジャーナリストたちの多くが、取材先でまとめた原稿を電話回線で送る格好の道具として、モデル100を活用してみせた。

 ファーストクラス機内での西と稲盛の出会いは、のちにノートブックマシンとして大きく成長する真のポータブル機の原点を生んだ。

 ただし2人の出会いをきっかけとして育ちはじめたマシンは、このハンドヘルド機だけではなかった。機内で西が「将来のパソコンはこうなる」と断言したアルトの子供もまた、ほぼ同時に開発のレールに乗っていた。

 1977年に発表されたアラン・ケイの「パーソナル・ダイナミック・メディア」を、西は読んでいなかった。

 だが信州精器のハンドヘルドコンピュータや、アルトの流れを汲むPERQ、そしてスター越しに時代の風を感じた西は、アラン・ケイがダイナブック実現のための課題と想定した2つの要素に取り組むマシンを、IBM PCの次のターゲットとして同時に選び取っていた。

 ダイナブックは、ノート程度の大きさのハードウエアと、視覚的な操作環境を提供するソフトウエアとの組み合わせによって実現される。ハンドヘルドマシンはこのダイナブックのハードウエアを目指し、もう1つのアルトの子供は、ダイナブックのソフトウエアを目指していた。

 この2つのマシンを育てる日本のパートナーとして西が選んだのは、アスキーとマイクロソフトに飛躍のきっかけを与えてくれた、日本電気の渡辺和也をリーダーとするチームだった。

 1982(昭和57)年の5月から、電子デバイス事業グループのパーソナルコンピュータ事業部では、アスキーと京都セラミツクとの連携のもと、まったく新しい2つのマシンの開発計画が進みはじめた。

 ただしこの時期、日本電気で新しいパーソナルコンピュータの開発を進めていたのは、彼らだけではなかった。情報処理事業グループは、従来の常識に決別したマシンの開発の歯車を、常軌を逸したすさまじい勢いで回しつつあった。

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