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パソコン創世記
第2部 第5章 人ひとりのコンピュータは大型の亜流にあらず
1980 もう1人の電子少年の復活

人の心、コンピュータ、インターフェイス

富田倫生
2010/7/6

前回「ベーシックに閉じこもるか、OSに進むか」へ

本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、日本のパソコン業界黎明期に活躍したさまざまなヒーローを取り上げています。普段は触れる機会の少ない日本のIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は『パソコン創世記』の著者である富田倫生氏の許可を得て公開しています。「青空文庫」版のテキストファイル(2003年1月16日最終更新)が底本です。「青空文庫収録ファイルの取り扱い規準」に則り、表記の一部を@ITの校正ルールに沿って直しています。例)全角英数字⇒半角英数字、コンピューター⇒コンピュータ など

次のターゲットは
日本語版アルトだ!

 「やったで」

 1982(昭和57)年4月、深夜の電話を伊勢崎の自宅で受けた松本吉彦は、時差など頭の隅にも置いていない西和彦の、弾むような声に耳をはじかれた。

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 企画を進めていた例のハンドヘルドコンピュータを、タンディが売ってくれることになったと、西は高い調子で告げた。プロトタイプを駆使した西のプレゼンテーションを受けて、タンディ副社長のジョン・シャーリーは、京都セラミツクがハードウェアを製造し、マイクロソフトがソフトウェアを準備する超小型機を、自社のブランドで売り出すことをその場で引き受けた。

 「即断即決やで」

 そう告げる西の声が、心地よさそうに受話器の中で砕けてこだました。

 前年の秋、京都セラミツクの稲盛和夫と西和彦とのファーストクラス客室内における出会いは、2つの未来志向マシンの開発プロジェクトに結びついた。1つは持ち運びの可能な超小型のハンドヘルドコンピュータ。加えて西と稲盛は、アルトの精神を汲んだマシンの開発に取り組むことにも合意していた。

 京都セラミツクがこの分野に経験とセールス網を持っていないことから、販売を引き受けてくれるメーカー探しには西があたることになった。マシンの開発と製造は、京都セラミツクの子会社のサイバネット工業。西は同社社長の友納春樹に「ハードウェア作りの天才」として松本を紹介し、アルトの子供の開発作業はマイクロハードに発注された。

 「次は僕の出番の日電だね」

 受話器でも持ち替えたのか、西の言葉が途切れた間を松本が問いかけの言葉で埋めた。

 「そう。今度が本番やね」

 しばらく間をおいてから返ってきた西の声は、一転して自分に言い聞かせるような低い調子を帯びていた。

 ハンドヘルドコンピュータの販売はまずタンディに持ちかけた西だったが、アルトの子供の売り込み先には、稲盛との合意がまとまった時点から日本電気を想定していた。

 日本電気半導体事業グループの渡辺和也のチームは、西とマイクロソフトにとってかけがえのない育ての親だった。PC-8001にマイクロソフトのベーシックを売り込むことに成功した西は、その余勢を駆ってほとんどの日本のパーソナルコンピュータに採用を取りつけていった。最大瞬間風速では、マイクロソフトの全売り上げに占める日本の割合は4割に迫った。IBMがPCプロジェクトを持ちかけるまで、日本電気はマイクロソフトにとってもっとも重要な顧客だった。

 加えて日本電気には、パーソナルコンピュータの未来像を完璧に共有できる後藤富雄がいた。

 大内淳義のもと、渡辺和也をリーダーとして進められてきた同社のパーソナルコンピュータ事業において、具体的なマシンの方向付けに関してもっとも大きな影響力を持っていたのは、柔軟な好奇心のきらめきと少年の誠実さをあわせ持った後藤だった。

 1981(昭和56)年の暮れいっぱいまでかかってPC-8801の出荷にこぎ着けた後藤を、1982年に入って間もなく、西はベンチャーキャピタリストのベン・ローゼンが主催する「パーソナルコンピュータフォーラム」に誘った。5月10日から12日まで、ロサンゼルス近郊のパームスプリングスで開かれるフォーラムで、日本市場の現状と日本電気の成功の要因に関する報告を2人でやりたいと、西は後藤に持ちかけた。

 100名あまりの出席者の中には、業界のめぼしいキーマンが軒並み顔をそろえていた★。

 ★フォーラムの論議を記録した『ザ・ローゼン・エレクトロニクス・レター』(1982年9月29日号)の主要出席者名簿には、スティーブ・ジョブズ(アップルコンピュータ会長)、フィリップ・D・エストリッジ(IBM副社長、エントリーシステムズ・ジェネラルマネージャー)、アダム・オズボーン(オズボーンコンピュータ社長)、ジョン・ローチ(タンディ社長)、ゲアリー・キルドール(デジタルリサーチ社長)、ビル・ゲイツ(マイクロソフト社長)、ダニエル・フィルストラ(ビジコープ会長)らに加えて、後藤富雄と西和彦の名前が記載されている。

 3度目を数えるフォーラムは、この年の主要なテーマの1つとして、「親しみやすさとは何か」を据えていた。

 セッションの冒頭に講演に立ったゼロックス、オフィスプロダクト部門のドナルド・マッサーロは、「これまでは自分で欲しいと思っている人にパーソナルコンピュータを売ってきたが、今後は、マシンを必要とはしていても必ずしも欲しいとは意識していない人に売っていかなければならない。そこで、インターフェイスの問題が浮上してくる」と指摘した。人の心とコンピュータが、ともに広い帯域幅を与えられながら、キーボードを介することで、交換できる情報量を極端に制限しているのはなんと奇妙なことだろうと指摘したマッサーロは、「こうした状況も市場に出てくるスターや、PERQなどの新しいマシンによって変化するだろう」と続けた。

 アラン・ケイらの再三の働きかけにもかかわらずアルトの研究成果を商品開発に結びつけられなかったゼロックスは、前年の1981年の4月になって、遅ればせながらスターと名付けたワークステーションを発表していた。

 パロアルト研究所を飛び出したブラインアン・ローゼンの起こしたスリー・リバース・コンピュータは、1980年、スターに先だってPERQと名付けたワークステーションを発表していた。

 マッサーロはさらに、アップルの未発表の製品であるリサとマッキントッシュがこうした流れに沿っていることを、スティーブ・ジョブズを前にしてスピーチの中でほのめかした。

 アルトの成果に強い衝撃を受けたアップルは、この技術を利用したマシンの開発を目指し、人材をパロアルト研究所から引き抜いてリサとマッキントッシュのプロジェクトを進めつつあった。

 リサの開発チームはソフトウェアをすべて自前で用意しようとしたが、マッキントッシュを担当することになったジョブズは、ベーシックをはじめとする一部のソフトウェアをマイクロソフトに依頼して開発期間の短縮を図ろうと考えた。1981年の夏、ジョブズを訪ねたゲイツはマッキントッシュの開発チームに引き合わされ、試作機を見せられた。1982年2月、ジョブズはマッキントッシュ用のソフトウェア開発に関する契約をビル・ゲイツと結び、マイクロソフトには開発マシンとしてマッキントッシュのプロトタイプが運び込まれた。最終的に採用されることになったソニー製の3.5インチ、マイクロフロッピーディスクの代わりに、5インチのドライブを一体型の筺体に内蔵したマッキントッシュの試作機を、西自身もこの時点で触っていた。

 アルトの成果とこれにかかわった人材は、風に運ばれて落ちたそれぞれの庭に、それぞれの花を咲かせつつあった。

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