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IT業界の冒険者たち

第7回 墜ちた予言者

脇英世
2009/5/20

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本連載を初めて読む人へ:先行き不透明な時代をITエンジニアとして生き抜くためには、何が必要なのでしょうか。それを学ぶ1つの手段として、わたしたちはIT業界で活躍してきた人々の偉業を知ることが有効だと考えます。本連載では、IT業界を切り開いた117人の先駆者たちの姿を紹介します。普段は触れる機会の少ないIT業界の歴史を知り、より誇りを持って仕事に取り組む一助としていただければ幸いです。(編集部)

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

トリップ・ホーキンス(Trip Hawkins)――
3DO会長兼CEO

 トリップ・ホーキンスは、1953年南カリフォルニアに生まれ育った。ゲーム好きの少年だったといわれている。順調にハーバード大学に進み、1972年ハーバード大学在学中の19歳で、フットボール作戦ゲームを作った。この場合のゲームというのはコンピュータを使わない卓上ゲームである。マイクロプロセッサが登場していない時代のことだ。トリップ・ホーキンスは父親から5000ドルを借りて、アキュスタットという会社をつくり、通信販売で自分の作ったゲームを売った。このときは、あまりうまくいかず、すぐに会社をたたんだようだ。

 トリップ・ホーキンスはハーバード大学ではゲーム戦略を専攻した。卒業研究は第3次世界大戦のシミュレーションであった。変わったものをやると思う。卒業成績は次席であったということだが、成績は一貫して優秀だったようだ。1976年に東海岸のハーバード大学を卒業すると、西海岸のスタンフォードビジネススクールに行った。米国で出世するための理想的なキャリアである。最初の仕事としてフェアチャイルドのためにマーケットリサーチをした。次に、クリエイティブ・マーケット・リサーチでパソコン業界の動向予測を書いた。これがアップルのスティーブ・ジョブズとマイク・マークラの目に留まり、アップルへ就職するよう勧誘された。

 1978年トリップ・ホーキンスはアップルコンピュータに入社する。従業員番号69であった。トリップ・ホーキンスはアップルが雇った最初のMBA(経営学修士)である。当然、厚遇され、アップルの全株式の0.5%を与えられた。いまではあり得ないことだ。この株式は1980年には750万ドルの価値になった。この株式を売却して、独立のための資金を得るのである。

 トリップ・ホーキンスはアップル時代、アップルII+のマーケティングやVISICALCの契約、LISAの開発に関与した。またジョエル・ビリングスに初めてのゲームプログラムを書かせたりした。ジョエル・ビリングスは機甲師団の戦闘シミュレーションなどを得意としていた。トリップ・ホーキンスの得意分野は、こうした初期の経歴から見ると、どうも戦略シミュレーションゲームだったようだ。

 1982年1月1日、かねてから計画していたようにトリップ・ホーキンスは、カリフォルニア州サンマテオにエレクトロニック・アーツ社を設立した。この年を選んだのはトリップ・ホーキンスが29歳であり、30歳になる前に自分の会社をつくるという夢を実現するためであった。

 トリップ・ホーキンスはアップルで、プログラマはソフトウェアデザイナーであり、アーティストであることを学んだ。トリップ・ホーキンスはそれをさらに進めて、エレクトロニック・アーツをレコード会社のような会社にした。トリップ・ホーキンスはゲームソフトウェアのプログラマをアーティストと呼んで厚遇した。ゲームソフトウェアのジャケットをレコードアルバムのように派手に作り、アーティストの名前を刷り込んだ。またアーティストのためのツアーや宣伝も行った。こういうことは、プログラマを単なる下働きのアルバイターとしか考えていなかったゲームソフトウェア業界では珍しいことであった。こうしてエレクトロニック・アーツは順調に成長していき、ゲームソフトウェア業界でナンバーワンの地位を占めるようになった。

 1990年ごろ、トリップ・ホーキンスはマルチメディアの世界に標準がなく、互換性がないことを憂えていた。そこで彼はハードウェアメーカーを糾合し、正しい方向性を持った技術的標準を提供するビジネスモデルを考えついた。これをバーチャルコーポレーション構想といってよいだろう。

 標準を作る以上は中立でなければならないというのがトリップ・ホーキンスの考え方であった。そこでトリップ・ホーキンスは1992年末エレクトロニック・アーツを離れ、3DO社をつくった。3DOの旗の下に集結したのは、主なところでは松下、タイム・ワーナー、MCA、AT&Tなどの各社、クライナー・パーキンス、さらにスティーブン・スピルバーグも好意を寄せ、全体で300社にもなった。1992年を選んだのは40歳という年齢を意識したためだろう。彼は30歳とか40歳とかの節目に何かをやるという人生設計でいたようだ。この時期がトリップ・ホーキンスにとって最も良い時期であったろう。アライアンス(提携)戦略が大流行の時期で、40歳のトリップ・ホーキンスは時流に乗ったのだ。

 1993年5月、3DOの株式は1株15ドルで公開され、4700万ドル以上の資金を集めた。株価は1993年10月48ドルを超えたが、後は低落に転じた。トリップ・ホーキンス率いる3DOそれ自身は機器を作らず、アプリケーションを書かなかった。標準を作り、技術を作り出し、ライセンスした。その意味で虚業である同社が上場すること自体も問題だという批判があった。

 1993年10月、松下電器産業が3DOからライセンスを受けた32ビットCDマルチプレーヤーを出した。トリップ・ホーキンスはインタラクティブマルチプレーヤーと呼ぶのを好んだ。要するにゲームマシンである。32ビットであることとCD-I 採用が売り文句であった。トリップ・ホーキンスは失敗しても50万台は売れると豪語した。アイデアは理論的には良かったかもしれないが、ゲーム業界はそういうものが通用するほど生やさしい世界ではなかった。またトリップ・ホーキンスはハードウェアビジネスを知らなすぎた。

本連載は、2002年 ソフトバンク パブリッシング(現ソフトバンク クリエイティブ)刊行の書籍『IT業界の冒険者たち』を、著者である脇英世氏の許可を得て転載しており、内容は当時のものです。

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